赤ワインで唇が赤くなった彼の横顔に、目が離せなかった夜
代官山のワインバー、Hingeで知り合ったショウタと初めて飲んだ夜。ブルゴーニュで染まった彼の唇から、どうしても目が離せなかった。好きかどうかより先に、体が答えを知っていた。
代官山のワインバーには、カウンター席しかなかった。
入ったとき、それを確認して少し安堵した。テーブル席だと向かい合わせになる。向かい合わせは、緊張を隠す場所がない。横並びなら、視線を逃がせる。そう思っていたのに、結局、逃げられなかった。
Hingeでショウタとマッチしたのは三週間前。最初のメッセージが「よく行く店ってありますか」で、「代官山のワインバーが好きです」と答えたら、「じゃあそこで」と返ってきた。下心なのか純粋なのか、わからなかった。わからないまま、今日になった。
店に入るとジャズが低く流れていた。Norah Jonesだったと思う。Come Away with Meの、あのゆっくりとした旋律。照明は暗く、カウンターの端にキャンドルが並んでいて、炎が息をするみたいに揺れていた。11月の夜、外は冷えていたのに、店の中は少しだけ温度が高かった。コートを脱いだら、背中がじわっとした。緊張なのか体温なのか、区別がつかなかった。
ショウタはすでに席にいた。スツールに座って、メニューを眺めていた。私が来たのに気づいて顔を上げた。「こんにちは」と言った。「こんにちは」と言った。同時だった。少し笑った。それだけで、少し楽になった気がした。気がしただけだけど。
「何にしますか」とショウタが聞いた。
メニューを見た。白、ロゼ、赤。手が赤を指していた。
「赤で」
「僕も赤にしようと思ってた」
「赤派なんですね」
「なんとなく」
我ながら素っ気ない返事だった。でも、嘘じゃなかった。なんとなく赤が好きで、なんとなくこの店が好きで、なんとなく今夜ここに来た。全部、なんとなく。理由を言葉にしようとすると、するりと逃げていく。
ソムリエが選んでくれたのはブルゴーニュだった。ドメーヌ・ドルーアン、と聞こえた。グラスに注がれたとき、深い赤紫色が揺れた。キャンドルの光を受けて、少し透けた。きれいだと思った。思いながら、隣の手元を見た。ショウタの指がステムを持った。細い指だった。
乾杯した。グラスが当たって、小さく鳴った。
飲んだ。
唇が、赤くなった。
ほんの少し。でも確かに。ワインの色が、唇の輪郭にのった。
気づいてしまった。気づきたくなかった。
「ピノ・ノワール、好きですか」
ショウタが聞いた。私はグラスを見ていた。いや、見ているふりをしていた。実際には彼の口元を追っていた。話すたびに動く唇。染まった唇。
「好きです。あんまり渋くないのが」
「僕も。タンニン強すぎると、翌朝に残るんですよね」
「わかります」
会話は続いていた。でも私の意識の半分は、ずっとそこにあった。彼がグラスを持ち上げるたびに。口に運ぶたびに。テーブルに戻すたびに。唇が赤く、また少し赤くなっていく。
自分のワインを飲んだ。喉が渇いていた。緊張で、口の中が乾いていた。
2杯目になって、少しだけ話が弾んだ。彼が転職を考えていること、でも踏み切れていないこと。私がポルトガルに行きたいと思っていること、まだ計画が立てられていないこと。お互い、「いつかやろうと思ってること」がたくさんある話をした。「いつか」って便利な言葉ですよね、と彼が言って、そうですね、と返した。横顔を見た。鼻梁の形。顎のライン。首筋に少し影がかかっていた。
「おいしい」
ショウタが言った。グラスをテーブルに置いた。唇を舌で、ほんの軽くなぞった。
見ていた。完全に、見ていた。
視線を外した。自分のグラスに目を落とした。底に少しだけ残ったワインが揺れていた。心臓が、一拍分だけ速くなった。好きかどうかよりも先に、体が何かを知っていた。この感覚には名前がない。あるいは、名前をつけたくなかった。まだ3回目のデートで、まだ全然わからなくて、でもこの横顔から目が離せなかった。
3杯目のワインを頼んだ。ソムリエが「今夜はずっとブルゴーニュですか」と笑いながら聞いた。「そうします」と答えた。ショウタも「僕も同じで」と言った。また赤が注がれた。
映画の話になった。彼はミヒャエル・ハネケが好きで、私はグレタ・ガーウィグが好きで、全然違うと思いながら、でも「映画館で見る派」は一緒だった。「配信で見る映画と、映画館で見る映画って、別物じゃないですか」と彼が言って、そのとき初めて、彼の方を正面から見た。目が合った。1秒か2秒か、わからない。でも彼は視線を逸らさなかった。私も逸らせなかった。
終わりの時間が来た。
会計を済ませて外に出た。代官山の夜風は冷たかった。11月の夜、ヒルサイドテラス沿いの木の葉が少し揺れていた。コートの前を合わせた。ショウタが「寒いですね」と言った。「はい」と返した。息が白くなった。
「楽しかった」と彼が言った。
「私も」
少し間があった。
「次は——白も飲みましょう」
次、という言葉が出た。それだけで、胸の奥が少し動いた。
「赤の方がいいです」
答えてから、気づいた。赤がいい理由を、声に出したわけじゃない。でも、言ってしまった。ショウタも気づいたと思う。一瞬、表情が変わった。笑った。ワインの赤がまだ残っている唇で、笑った。
「じゃあ、また赤で」
家に帰って、コートを脱いで、洗面台の前に立ったとき、自分の唇も少し赤いことに気づいた。ワインの色。同じ赤。
好きかどうか、まだわからない。でも次の約束をしてしまった。赤を頼んでしまった。体が先に、何かを決めていた。
赤ワインを飲む人の唇は、嘘がつけない。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。