タクシーの暗闇で手が触れた。どちらも、引かなかった
終電を逃した夜、三軒茶屋からのタクシーで手が触れた。引くタイミングを、どちらも見つけられなかった。4回目の夜に起きた、たった数センチの距離の話。
終電を逃したこと、二人とも気づいていた。
三軒茶屋の「串と肴 ひびき」を出たのが0時15分。店の看板が消えていた。雨上がりの歩道が、街灯の黄色い光を反射していて、ぬるっと光っていた。秋の始まりで、風にかすかにキンモクセイのにおいがした。気のせいかもしれないし、気のせいじゃないかもしれなかった。
Tappleで知り合ったユイチロとは、今夜で4回目だった。4回、という数字は、なんとなく宙ぶらりんな感じがする。付き合ってるとも言えない。友達とも違う。会うたびに少しずつ距離が縮まっているのに、どこにも着地していない。そういう関係だった。
タクシーを呼んだのは彼だった。「渋谷方面でいい?」と確認された。良かった。渋谷からなら電車でも帰れる。そういう保険みたいな選択肢を、私は無意識にいつも用意している。好きかもしれない相手の前でも、逃げ道を先に決めてしまう癖。
後部座席に並んで乗り込んだ。
夜の道路は空いていた。三茶から渋谷へ向かう道、普段は渋滞しているはずの区間が、この時間だと吸い込まれるように流れていく。信号だけが律儀に赤と青を繰り返して、その度に車内の光の色が変わった。赤信号で、一瞬、ユイチロの横顔が赤く染まった。前を向いたまま、目線は窓の外。
会話が途切れた。
怖い沈黙じゃなかった。間を埋めなきゃいけない感じがしなくて、それがかえって居心地よくて、少し怖かった。居心地がいいことが、どうして怖いんだろう。でも怖かった。
膝の上に両手を置いていた。コートの上に。指が、なんとなく落ち着かなくて、ゆっくりとシートの上へ滑らせた。レザーシートの縫い目を指でなぞる。溝に沿って、ぼんやりと。自分でも何をしているかよくわかっていなかった。
指先が、何かに触れた。
温かい。
布じゃない。肌だ。
ユイチロの手だった。
彼も同じように、手をシートの上に伸ばしていたらしかった。どちらが先だったのかわからない。たぶん、ほぼ同時だったんだと思う。
0.5秒。
引くか、引かないか。脳みそより先に体が判断する、あの感じ。心臓が一拍分だけ止まって、それから急に速くなった。喉の奥の方で、ドクドクという音がした。実際に音はしないのに、聴こえた気がした。
どちらも動かなかった。
手の甲同士が触れている。ただそれだけ。繋いでもいない。ちゃんと触れているとも言い切れないくらいの、微妙な接触。なのに、全身の神経がそこに集まってくるような感覚があった。触れている面積は数センチなのに、なぜかそこだけが世界の中心みたいだった。
外を向いたまま、私は前を見ていた。ユイチロも正面を向いたまま。運転手さんは関係ない顔でハンドルを握っている。カーナビが静かに光っている。ラジオからジャズっぽい、低い音楽が流れていた。J-WAVEだったかもしれない。曲名はわからなかった。
「信号、多いね」
ユイチロが言った。
「そうだね」
私が言った。
それだけ。
触れたままだった。どちらも引かなかった。引く理由を、二人とも探さなかった。
渋谷のセンター街の手前、Bunkamuraの看板が車窓を流れていくくらいのところで、ユイチロの指が動いた。手の甲から、指と指の間へ。ゆっくり、確かめるように。絡まった。
手が繋がった。
前を向いたまま。横を見なかった。見たら、なにかが変わってしまう気がした。このままでいたかった。この数分間を、もう少し引き延ばしていたかった。でも同時に、早く終わってほしいとも思っていた。こういう気持ちの矛盾に、私はいつも名前をつけられない。
渋谷で降りた。
「送っていく」とユイチロが言った。
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「電車で帰れるよ」
「知ってる。でも」
言いかけて、やめた。続きを言わなかった。
私も聞かなかった。
タクシーのドアが閉まって、車が行ってしまった。夜の渋谷は、深夜でもそれなりに人がいて、どこかで誰かが笑う声がして、遠くからクラクションが聞こえた。でも私たちの周りだけ、少しだけ静かだった気がした。
タクシーを降りた後も、手は繋いだままだった。
それが妙に、嬉しかった。タクシーという密閉された暗闇の中だけの特別な接触で終わらなくて、外の空気の中でも、街灯の下でも、ちゃんとそこにあった。暗闇で触れた手は、光の中でも消えなかった。
今になって思う。あの夜、私はきっと、ユイチロのことが好きだったんだと思う。でも確信はなかった。好きかもしれない、違うかもしれない、が同時にあった。それでも手を引かなかったのは、答えを出す前に、もう少しだけ確かめたかったからだ。
人を好きになる瞬間は、劇的じゃない。三軒茶屋の夜風でも、タクシーの赤信号でも、センター街の手前の交差点でもなかった。手の甲に触れた、数センチの温度。それだけだったのかもしれない。
たった数センチで世界が変わる夜が、あの年齢にはあった。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。