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彼のシャツを借りたまま帰った夜、後悔してクリーニングに出せなかった

Tinderで知り合ったリョウの家でコーヒーをこぼして、シャツを借りた十月の夜。代々木上原の帰り道、コートの下に感じたその匂いを、3日間洗えなかった。人を好きになるって、こういう小さな保留の積み重ねだと思った。

25歳・女性の体験
·橘みあ·4分で読める

正直に言う。シャツを借りたまま帰ったのに、洗えなかった。


駅から歩いて8分、築6年のマンションのエレベーターを降りた瞬間、廊下の蛍光灯が少しだけ遅れてついた。ワンテンポ遅い光の中で、リョウが鍵を開ける背中を見ていた。なんでもない背中。Tinderのプロフィール写真で何度も見た横顔とは違う、日常の角度。


「散らかってる」と言ったけど、散らかっていなかった。


1LDK。床に服が落ちていない。本棚には翻訳小説と写真集と建築の本が混ざっていて、並びに法則があるのかないのかわからなかった。IKEAのフロアランプ、アーケード型の白い笠。光が暗すぎず明るすぎず、夜の10時半の部屋にちょうど合っていた。恵比寿のバーを出るとき、「本棚見せてよ」と言ったのは私だ。口実だとわかってて、彼もわかってて、両方でタクシーに乗った。


コーヒーを淹れてもらった。


コーヒーをこぼして、彼のシャツを借りた


グァテマラだと言っていた。豆から挽いていた。その音と匂いで、少しだけ緊張がほどけて、それが失敗だった。


ソファに座って、本棚の話をしていた。「この写真集、ソール・ライターですよね」と言いかけた瞬間に、カップが傾いた。


「あっ」


声だけ出た。白いシャツに、黒いコーヒーがじわりと広がっていく。熱い。じわじわ広がる。染みが止まらない。最悪。本当に、最悪。3ヶ月間LINEしてて、初めて会いに来て、最初にやることがこれ。


「ちょっと待って」


リョウがキッチンに消えた。布巾を持って戻ってくる。しゃがんで、シャツを拭いてくれた。手が、私のシャツに触れている。それを考えたら、染みより先にそっちが気になって、自分がちょっと嫌になった。


「ごめんなさい、クリーニング代——」


「いい。新しいやつ着る?」


「え?」


「シャツ。ちょっと大きいけど、着る?」


差し出されたのは薄いグレーのチェックシャツ。畳まれていて、きれいだった。タグに目が行った。エルメネジルド ゼニア。高い。絶対高い。そういうのを当たり前みたいに差し出す人なんだ、と思った。知らなかった。3ヶ月LINEしてたのに。


「でも——」


「着て。洗面所どうぞ」


言いかけたことを遮られた。有無を言わせない感じではなくて、ただ、それ以外の選択肢を想定していないみたいな言い方だった。


洗面所の鏡が、縦長だった。


着替えて、鏡を見た。肩が余っている。袖が余っている。裾がひざの上まである。完全に誰かの服を着た人。でも。


匂いがした。


柔軟剤の匂い、レモングラス系の、甘くない匂い。体温で温まって、首のところから上がってくる。口を開いたが声にならなかった。他人の家の洗濯機で洗われた布が持っている、その人の「普通の夜」の匂い。私はその匂いをまだ全然知らないのに、今この瞬間だけは纏っていた。


なんか。


なんか、やばい。


リビングに戻ったら、リョウが笑った。おかしくて笑う感じじゃなくて、少し目を細める笑い方。


「似合ってる」


「大きすぎる」


「それがいい」


意味深なのか本心なのかわからない言い方をする人だ。3ヶ月、LINEでもそうだった。こっちが「どういう意味?」と聞くと「そのまんまの意味」と返してくる。そのまんまの意味が、いくつも重なって見えるときがある。


「シャツ、返さなくていい」と言われた


その後、映画を一本見た。


『スコット・ピルグリム対邪悪な元カレ軍団』。リョウが「これ見たことある?」と言って、私が「ない」と言って、じゃあと。ソファで隣に座って、肩が触れていた。触れているのか触れていないのか微妙な距離で、どちらも動かなかった。チャプターが変わるたびに席を直す口実を探して、結局どちらも動かないまま、映画が終わった。内容は半分しか入ってこなかった。画面の色だけが、ぼんやり記憶にある。


終電の20分前に「帰る」と言った。


シャツ返します、と言いかけたら先に言われた。


「シャツ、返さなくていい」


「えっ」


「返しに来い、っていう意味でもなくて。あげる」


「……なんで」


「似合ってたから」


それだけ言って、玄関まで送ってくれた。エレベーターが来るまでの15秒、何か言おうとして、何も言えなかった。扉が閉まる直前に「またね」とだけ言った。彼も「またね」と言った。同じ言葉なのに、重さが違う気がして、それが気のせいかどうかわからなかった。


電車の中で、袖を鼻に寄せた。レモングラスの匂いが、まだした。


帰ってシャワーを浴びた。シャツはハンガーにかけた。クリーニングには出さなかった。出したくなかった。3日間そのままにした。朝、支度するときに目に入るたびに、なんか、と思った。好きなのか好きじゃないのかもよくわからないのに、この匂いだけは残したかった。感情より先に体が知っていることがある。そういうことだと思う、たぶん。


4日目の夜、リョウからLINEが来た。


「シャツ、似合ってた?」


「まだ着てる」と返したら、1分後に既読がついた。返事はなかった。でも既読がついた時間——夜の11時43分——彼もどこかで笑ってたと思う。根拠はないけど、そう思う。


結局、シャツを洗ったのは1週間後だった。


ネットで「エルメネジルド ゼニア シャツ 洗濯」と調べて、おしゃれ着洗いで手洗いした。レモングラスの匂いが、自分の部屋の洗剤の匂いに変わった。洗い終わって干しながら、少しだけ、何かが終わった気がした。悲しいとは違う。ただ、保留していたものを手放した感覚。


匂いが染み込んだ服は洗えばなくなるのに、洗えない夜がある。

よくある質問

どのアプリで知り合ったのですか?
Tinderです。最初のメッセージが、筆者の本棚の写真に「村上春樹と川上未映子、両方いるんですね」とリアクションしてきたものでした。
なぜシャツを借りることになったのですか?
恵比寿のバーを出た後、リョウの部屋に行ったとのことです。十月の三軒茶屋、1LDKの部屋でコーヒーをこぼしてしまい、シャツを借りることになったようです。
シャツをクリーニングに出せなかった理由は何ですか?
彼の香水の匂いが移っていて、洗いたくなかったからです。水曜日に匂いが消えるまでそのままにしておいたとのことです。好きになるってこういう小さな保留の積み重ねだと書かれています。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

#シャツ#匂い#Tinder#はじめて#ドキドキ

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