彼のシャツを借りたまま帰った夜、クリーニングに出せなかった
コーヒーをこぼして、シャツを借りて、その匂いを3日間洗えなかった。人を好きになるって、こういう小さな保留の積み重ねなのかもしれない。
十月の終わりの、三軒茶屋。
駅から歩いて8分、築6年のマンションのエレベーターを降りた瞬間、廊下の蛍光灯が少しだけ遅れてついた。ワンテンポ遅い光の中で、リョウが鍵を開ける背中を見ていた。なんでもない背中。Tinderのプロフィール写真で何度も見た横顔とは違う、日常の角度。
「散らかってる」と言ったけど、散らかっていなかった。
1LDK。床に服が落ちていない。本棚には翻訳小説と写真集と建築の本が混ざっていて、並びに法則があるのかないのかわからなかった。IKEAのフロアランプ、アーケード型の白い笠。光が暗すぎず明るすぎず、夜の10時半の部屋にちょうど合っていた。恵比寿のバーを出るとき、「本棚見せてよ」と言ったのは私だ。口実だとわかってて、彼もわかってて、両方でタクシーに乗った。
コーヒーを淹れてもらった。
グァテマラだと言っていた。豆から挽いていた。その音と匂いで、少しだけ緊張がほどけて、それが失敗だった。
ソファに座って、本棚の話をしていた。「この写真集、ソール・ライターですよね」と言いかけた瞬間に、カップが傾いた。
「あっ」
声だけ出た。白いシャツに、黒いコーヒーがじわりと広がっていく。熱い。じわじわ広がる。染みが止まらない。最悪。本当に、最悪。3ヶ月間LINEしてて、初めて会いに来て、最初にやることがこれ。
「ちょっと待って」
リョウがキッチンに消えた。布巾を持って戻ってくる。しゃがんで、シャツを拭いてくれた。手が、私のシャツに触れている。それを考えたら、染みより先にそっちが気になって、自分がちょっと嫌になった。
「ごめんなさい、クリーニング代——」
「いい。新しいやつ着る?」
「え?」
「シャツ。ちょっと大きいけど、着る?」
差し出されたのは薄いグレーのチェックシャツ。畳まれていて、きれいだった。タグに目が行った。エルメネジルド ゼニア。高い。絶対高い。そういうのを当たり前みたいに差し出す人なんだ、と思った。知らなかった。3ヶ月LINEしてたのに。
「でも——」
「着て。洗面所どうぞ」
言いかけたことを遮られた。有無を言わせない感じではなくて、ただ、それ以外の選択肢を想定していないみたいな言い方だった。
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Tinderで知り合って3週間。表参道でのディナーの帰り道、リクの香水が私のコートに移った。その匂いを、水曜日に消えるまで、私は洗わずにいた。
洗面所の鏡が、縦長だった。
着替えて、鏡を見た。肩が余っている。袖が余っている。裾がひざの上まである。完全に誰かの服を着た人。でも。
匂いがした。
柔軟剤の匂い、レモングラス系の、甘くない匂い。体温で温まって、首のところから上がってくる。うまく言えない。他人の家の洗濯機で洗われた布が持っている、その人の「普通の夜」の匂い。私はその匂いをまだ全然知らないのに、今この瞬間だけは纏っていた。
なんか。
なんか、やばい。
リビングに戻ったら、リョウが笑った。おかしくて笑う感じじゃなくて、少し目を細める笑い方。
「似合ってる」
「大きすぎる」
「それがいい」
意味深なのか本心なのかわからない言い方をする人だ。3ヶ月、LINEでもそうだった。こっちが「どういう意味?」と聞くと「そのまんまの意味」と返してくる。そのまんまの意味が、いくつも重なって見えるときがある。
その後、映画を一本見た。
『スコット・ピルグリム対邪悪な元カレ軍団』。リョウが「これ見たことある?」と言って、私が「ない」と言って、じゃあと。ソファで隣に座って、肩が触れていた。触れているのか触れていないのか微妙な距離で、どちらも動かなかった。チャプターが変わるたびに席を直す口実を探して、結局どちらも動かないまま、映画が終わった。内容は半分しか入ってこなかった。画面の色だけが、ぼんやり記憶にある。
終電の20分前に「帰る」と言った。
シャツ返します、と言いかけたら先に言われた。
「シャツ、返さなくていい」
「えっ」
「返しに来い、っていう意味でもなくて。あげる」
「……なんで」
「似合ってたから」
それだけ言って、玄関まで送ってくれた。エレベーターが来るまでの15秒、何か言おうとして、何も言えなかった。扉が閉まる直前に「またね」とだけ言った。彼も「またね」と言った。同じ言葉なのに、重さが違う気がして、それが気のせいかどうかわからなかった。
電車の中で、袖を鼻に寄せた。レモングラスの匂いが、まだした。
帰ってシャワーを浴びた。シャツはハンガーにかけた。クリーニングには出さなかった。出したくなかった。3日間そのままにした。朝、支度するときに目に入るたびに、なんか、と思った。好きなのか好きじゃないのかもよくわからないのに、この匂いだけは残したかった。感情より先に体が知っていることがある。そういうことだと思う、たぶん。
4日目の夜、リョウからLINEが来た。
「シャツ、似合ってた?」
「まだ着てる」と返したら、1分後に既読がついた。返事はなかった。でも既読がついた時間——夜の11時43分——彼もどこかで笑ってたと思う。根拠はないけど、そう思う。
結局、シャツを洗ったのは1週間後だった。
ネットで「エルメネジルド ゼニア シャツ 洗濯」と調べて、おしゃれ着洗いで手洗いした。レモングラスの匂いが、自分の部屋の洗剤の匂いに変わった。洗い終わって干しながら、少しだけ、何かが終わった気がした。悲しいとは違う。ただ、保留していたものを手放した感覚。
人の匂いが染み込んだ服は、洗ったら全部なくなる。それを知っていて、洗えない夜がある。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。