彼の香水が私の服に移った夜、それを洗いたくなかった
Tinderで知り合って3週間、十一月の表参道でのディナー。帰り道、ケヤキ通りを歩きながら少し前を行くリクの背中を見ていた。コートにリクの香水が移った。水曜日に匂いが消えるまで、私は洗わずにいた。
十一月の表参道は、街灯の光がイチョウ並木に溶けて、オレンジ色に滲む。
ケヤキ通りを歩きながら、私はずっと少しだけ前を行くリクの背中を見ていた。コートの肩幅。歩くたびに揺れる襟足。まだ三週間しか経っていないのに、「知ってる人」みたいな感じがして、でもそれが少し怖かった。
Tinderで知り合った。最初のメッセージは、たしか私の本棚の写真にリアクションしてきたやつだった。「村上春樹と川上未映子、両方いるんですね」って。珍しいな、と思って返信した。それだけの話。出会いというより、偶然に近い。
表参道のイタリアンで
ディナーはリクが予約した表参道の路地裏のイタリアン。ガットブッソという店。外観は地味だけど、中に入ると天井が高くて、ロウソクの灯りが揺れていた。パスタを頼んで、ワインを一杯飲んで、気づいたら三時間が経っていた。なんの話をしたんだろう。大事な話は何もしていないはずなのに、なぜか充実していた。その感覚の意味が、まだちゃんとわからない。
食事の途中、ワインが足りなくなって、リクが「もう一杯どうですか」と聞いてきた。「いただきます」と言ったら、少し丁寧な手つきでグラスに注いでくれた。その手の動きを、なぜか目で追ってしまった。爪が短くて、清潔だった。手の甲の静脈がうっすら見えた。それだけのことを、帰ってから思い出した。なんでそんなところを覚えているんだろう、と自分で少し引いた。
表参道駅の前で立ち止まった。
風が少しあった。コートの前を合わせながら、「じゃあ」と言いかけたら、リクが先に言った。
「また来週」
「うん」
一瞬の間。彼が腕を広げた。ハグ、だった。
私のコートに、リクのコートが触れた。ウールとウールがこすれる、くぐもった感触。彼の首元に顔が近づいて、そこで気づいた。香水の匂い。キリッとしているのに、奥の方に温かさがある。木の根元みたいな、土みたいな、でも清潔な匂い。ヴァレンティノのウード、かな、と頭の片隅で思った。
五秒くらいだったと思う。
「じゃあ」
離れた。手を振った。改札に吸い込まれた。
コートを洗わなかった理由
千代田線のホーム。人がまばらにいた。電車を待ちながら、コートの襟を少し引き上げた。
あった。
さっきの匂いが、まだそこにいた。
リクの香水が、私のコートに移っていた。
電車に乗ってからも、襟を鼻に近づけた。隣の人が見ていたかもしれない。どうでもよかった。柔らかくて、芯がある。彼が自分で選んだ匂い。彼が今日もつけてきた匂い。私のコートに、今ある匂い。
その事実がただ、妙にリアルだった。
家に帰ったのは十一時過ぎだった。玄関でコートを脱いで、洗面台で手を洗って、それからコートを持ってクローゼットへ向かった。
ハンガーに掛けた。
洗濯カゴには、入れなかった。
理由を言語化しようとしたけど、できなかった。ただ、「まだいい」という感覚があった。もう少しだけ、このままにしたい。それだけだった。
翌朝、また着て出かけた。電車の中で、また確認した。ある。薄くなってるけど、まだある。
なんなんだろう、私。
月曜も着た。職場の同僚に「そのコートよく着てるね」と言われた。「気に入ってて」と答えた。嘘じゃない。本当のことも言っていない。
その夜、リクからLINEが来た。「今週また会えますか」という短いメッセージ。既読をつけてから、すぐ返せなかった。返したい気持ちと、なんかまだこのまま余韻の中にいたい気持ちが、変な感じに混ざっていた。10分後、「木曜どうですか」と返した。「行きましょう」と一言来て、それで終わった。スマホを置いて、またコートを持って確認した。まだあった。ほっとした自分がいて、その自分に少し笑えた。
火曜も着た。朝、コートを手に取ったとき、指先が止まった。もし今日で消えたら、という予感があった。それでも着た。勘は当たらなかった。まだあった。
水曜。朝、確認した。
なかった。
完全に、なかった。コートはただのコートに戻っていた。スカーフをしまってある棚の前でしばらく立っていた。三十秒くらい。何もしないで、ただ立っていた。
「次来た時につけてく」
木曜の夜、リクに連絡した。
「香水、何使ってるの?」
既読がついてすぐ「ヴァレンティノ。なんで?」と来た。
「好きな匂いだと思って」
打ちながら、違うな、と思った。「好きだと思って」じゃなくて、もうわかってた。好きだった。でもそれを先に言うのが、なんか怖かった。
「じゃあ次来た時につけてく」
「……そうして」
スマホを置いて、天井を見た。
「次」という言葉が、胸がゆっくり温かくなった。嬉しいのか不安なのか、どっちかわからない感じ。好きなはずなのに、どこかで「本当にそう?」と聞いてくる自分もいる。三週間って、まだ何もわかっていない時間だ。知っていると思っているだけで、知っているのはコートに移る香水の匂いだけかもしれない。それでも体温が先に答えを知っていた。それが、たぶん全部だった。
それでも。
その匂いを水曜日まで洗わずにいた自分の正直さは、たぶん嘘じゃない。理屈じゃなくて、体が先に決めていたことだから。好きとか嫌いとかより前に、「まだここにいてほしい」と思ったことだから。
一緒にいない夜に、その人の気配だけを残しておくこと。それがどれだけ切実か、誰かに説明できる気がしない。でも説明しなくていいとも思っている。クローゼットの中に掛けたコートと、私だけが知っていればいい話だから。
次に会う時、リクはヴァレンティノをつけてくる。また移るかもしれない。また洗わないかもしれない。
それでいい、と思っている。今は。
好きな人の匂いは、一緒にいない夜の代わりになる。
よくある質問
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香水の匂いはいつまで服に残っていたのですか?↓
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。