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彼の香水が私の服に移った夜、それを洗いたくなかった

Tinderで知り合って3週間、十一月の表参道でのディナー。帰り道、ケヤキ通りを歩きながら少し前を行くリクの背中を見ていた。コートにリクの香水が移った。水曜日に匂いが消えるまで、私は洗わずにいた。

26歳・女性の体験
·橘みあ·6分で読める

十一月の表参道は、街灯の光がイチョウ並木に溶けて、オレンジ色に滲む。


ケヤキ通りを歩きながら、私はずっと少しだけ前を行くリクの背中を見ていた。コートの肩幅。歩くたびに揺れる襟足。まだ三週間しか経っていないのに、「知ってる人」みたいな感じがして、でもそれが少し怖かった。


Tinderで知り合った。最初のメッセージは、たしか私の本棚の写真にリアクションしてきたやつだった。「村上春樹と川上未映子、両方いるんですね」って。珍しいな、と思って返信した。それだけの話。出会いというより、偶然に近い。


表参道のイタリアンで


ディナーはリクが予約した表参道の路地裏のイタリアン。ガットブッソという店。外観は地味だけど、中に入ると天井が高くて、ロウソクの灯りが揺れていた。パスタを頼んで、ワインを一杯飲んで、気づいたら三時間が経っていた。なんの話をしたんだろう。大事な話は何もしていないはずなのに、なぜか充実していた。その感覚の意味が、まだちゃんとわからない。


食事の途中、ワインが足りなくなって、リクが「もう一杯どうですか」と聞いてきた。「いただきます」と言ったら、少し丁寧な手つきでグラスに注いでくれた。その手の動きを、なぜか目で追ってしまった。爪が短くて、清潔だった。手の甲の静脈がうっすら見えた。それだけのことを、帰ってから思い出した。なんでそんなところを覚えているんだろう、と自分で少し引いた。


表参道駅の前で立ち止まった。


風が少しあった。コートの前を合わせながら、「じゃあ」と言いかけたら、リクが先に言った。


「また来週」


「うん」


一瞬の間。彼が腕を広げた。ハグ、だった。


私のコートに、リクのコートが触れた。ウールとウールがこすれる、くぐもった感触。彼の首元に顔が近づいて、そこで気づいた。香水の匂い。キリッとしているのに、奥の方に温かさがある。木の根元みたいな、土みたいな、でも清潔な匂い。ヴァレンティノのウード、かな、と頭の片隅で思った。


五秒くらいだったと思う。


「じゃあ」


離れた。手を振った。改札に吸い込まれた。


コートを洗わなかった理由


千代田線のホーム。人がまばらにいた。電車を待ちながら、コートの襟を少し引き上げた。


あった。


さっきの匂いが、まだそこにいた。


リクの香水が、私のコートに移っていた。


電車に乗ってからも、襟を鼻に近づけた。隣の人が見ていたかもしれない。どうでもよかった。柔らかくて、芯がある。彼が自分で選んだ匂い。彼が今日もつけてきた匂い。私のコートに、今ある匂い。


その事実がただ、妙にリアルだった。


家に帰ったのは十一時過ぎだった。玄関でコートを脱いで、洗面台で手を洗って、それからコートを持ってクローゼットへ向かった。


ハンガーに掛けた。


洗濯カゴには、入れなかった。


理由を言語化しようとしたけど、できなかった。ただ、「まだいい」という感覚があった。もう少しだけ、このままにしたい。それだけだった。


翌朝、また着て出かけた。電車の中で、また確認した。ある。薄くなってるけど、まだある。


なんなんだろう、私。


月曜も着た。職場の同僚に「そのコートよく着てるね」と言われた。「気に入ってて」と答えた。嘘じゃない。本当のことも言っていない。


その夜、リクからLINEが来た。「今週また会えますか」という短いメッセージ。既読をつけてから、すぐ返せなかった。返したい気持ちと、なんかまだこのまま余韻の中にいたい気持ちが、変な感じに混ざっていた。10分後、「木曜どうですか」と返した。「行きましょう」と一言来て、それで終わった。スマホを置いて、またコートを持って確認した。まだあった。ほっとした自分がいて、その自分に少し笑えた。


火曜も着た。朝、コートを手に取ったとき、指先が止まった。もし今日で消えたら、という予感があった。それでも着た。勘は当たらなかった。まだあった。


水曜。朝、確認した。


なかった。


完全に、なかった。コートはただのコートに戻っていた。スカーフをしまってある棚の前でしばらく立っていた。三十秒くらい。何もしないで、ただ立っていた。


「次来た時につけてく」


木曜の夜、リクに連絡した。


「香水、何使ってるの?」


既読がついてすぐ「ヴァレンティノ。なんで?」と来た。


「好きな匂いだと思って」


打ちながら、違うな、と思った。「好きだと思って」じゃなくて、もうわかってた。好きだった。でもそれを先に言うのが、なんか怖かった。


「じゃあ次来た時につけてく」


「……そうして」


スマホを置いて、天井を見た。


「次」という言葉が、胸がゆっくり温かくなった。嬉しいのか不安なのか、どっちかわからない感じ。好きなはずなのに、どこかで「本当にそう?」と聞いてくる自分もいる。三週間って、まだ何もわかっていない時間だ。知っていると思っているだけで、知っているのはコートに移る香水の匂いだけかもしれない。それでも体温が先に答えを知っていた。それが、たぶん全部だった。


それでも。


その匂いを水曜日まで洗わずにいた自分の正直さは、たぶん嘘じゃない。理屈じゃなくて、体が先に決めていたことだから。好きとか嫌いとかより前に、「まだここにいてほしい」と思ったことだから。


一緒にいない夜に、その人の気配だけを残しておくこと。それがどれだけ切実か、誰かに説明できる気がしない。でも説明しなくていいとも思っている。クローゼットの中に掛けたコートと、私だけが知っていればいい話だから。


次に会う時、リクはヴァレンティノをつけてくる。また移るかもしれない。また洗わないかもしれない。


それでいい、と思っている。今は。


好きな人の匂いは、一緒にいない夜の代わりになる。

よくある質問

どのアプリで知り合ったのですか?
Tinderで知り合ったリクとの話です。最初のメッセージが「村上春樹と川上未映子、両方いるんですね」という筆者の本棚の写真へのリアクションでした。
どこでのデートで香水が移ったのですか?
11月の表参道、リクが予約した路地裏のイタリアン「ガットブッソ」でのディナーの帰り道でした。イチョウ並木が街灯にオレンジ色に滲む夜でした。
香水の匂いはいつまで服に残っていたのですか?
水曜日に消えるまでの間、洗わずにいたとのことです。3日間、匂いを保留し続けた行動に、気持ちがはっきり表れています。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

#香水#匂い#Tinder#表参道#愛着

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