寒い夜に黙って体を寄せてきた彼に、返事は言葉じゃなかった
12月の中目黒、肩がぴたっとくっついた瞬間。何も言わなかった。歩調も変えなかった。それなのに、その夜の体温だけが、3ヶ月分の記憶の中で一番はっきりしている。
12月の中目黒は、川沿いの風が刃みたいに刺さる。
目黒川沿いのイルミネーションがちょうど始まる季節。昼間は映えスポット目当ての人で溢れるあの道が、夜の10時を過ぎると急に静かになる。足音と、水の音と、どこかの店から漏れてくるBGMだけになる。その静けさが、私はなんとなく好きだった。
Tappleで知り合ったコウと付き合って、3ヶ月が経っていた。
マッチングアプリで会った人と付き合うのは初めてで、最初の2週間くらいはまだどこかぎこちなかった。ちゃんと好きになっていいのかどうか、探るような気持ちがあった。でも気がついたら、中目黒のこの道を一緒に歩くのが当たり前になっていた。デートのたびに来ていた。それが定番、というより、他の場所に行く理由を思いつかなかっただけかもしれない。ここにいれば、ちょうどいい感じになれる気がして。
その夜は特に寒かった。
天気予報で「今季一番の冷え込み」と言っていたのを思い出す。コートのボタンを全部留めた。ポケットに入れていた手袋を出してはめた。マフラーを口元まで、いや鼻の下まで引き上げた。それでも耳が痛かった。吐く息が白い。足先がじんじんしてくる。
隣にコウがいた。
同じ方向を見ながら、黙って歩いていた。
この人と並ぶと不思議と会話が途切れても焦らない、ということにいつ頃気づいたんだろう。沈黙を埋めなきゃという焦りがない。疲れているわけじゃない。気まずいわけでもない。ただ、歩いていた。川の向こう岸に並ぶイルミネーションが、黒い水面にゆらゆらと映っていた。DEAN & DELUCAのロゴが入った袋を持った女の子たちとすれ違った。スニーカーが濡れた石畳に当たる音。風。水のにおい。
コウの肩が、ぴたっと私の肩にくっついた。
何も言わなかった。歩調も変えなかった。ただ、寄ってきた。
寒いから。それだけのことだと思った。
でも胸のどこかがざわついた。ざわつく、という表現が合ってるかどうかもわからない。どきっとしたわけじゃない。でも確かに何かが動いた。体の内側の、肋骨のあたりが、少しだけぎゅっとした感じ。
私はコートのボタンを全部留めたまま、少しだけ、コウの方に体を傾けた。
肩と肩がちゃんとくっついた。
温かかった。
コートの生地を通して、彼の体温が伝わってくる。それだけのことなのに、歩きながら自分の呼吸が少し浅くなっているのがわかった。寒さのせいにしようとした。そういうことにしておきたかった。
「寒いね」
コウが言った。前を向いたまま。
「うん」
「もう少し歩く?」
「歩く」
それだけだった。それだけで十分だった。
川沿いをまた歩いた。肩がくっついたまま。誰かと並んで歩くとき、これほど自分の姿勢を意識したことがあっただろうか。傾けすぎたら変かな、とか、もう少し寄ってもいいのかな、とか、普段は絶対に考えないことを考えながら歩いた。バカみたいだと思いながら、でも考えるのをやめられなかった。
人と体温を分け合う、ただそれだけのことが、こんなに胸に刺さるものだとは知らなかった。
川べりのベンチに、カップルが一組座っていた。女の子がずっと男の人の肩に頭を乗せていた。羨ましい、と思ったかもしれない。それとも、私も今そういう時間の中にいるんだろうか、と思ったかもしれない。どちらだったか、もう定かじゃない。
カフェに入ったのは、体が限界に近づいてきた頃だった。
中目黒駅の近くの、小さくて薄暗い店。外から見ると満席かと思ったけど、奥に二人掛けのテーブルが空いていた。温かい空気が顔を包んだ瞬間、体の力が抜けた。席についてコートを脱いだら、肩のあたりがすうっとした。
寂しい感じ、とでも言えばいいのか。
体温が離れた場所が、急に冷えた気がした。気のせいだと思う。コートを脱いだだけなのに。でも確かにそこだけ、温度が下がった気がした。
コウが温かいコーヒーを二つ頼んでくれた。ホットコーヒーのメニューを確認しながら、店員さんにさらっと言う横顔を見ていた。こういうとき、聞いてくれないんだ、と思った。私が何を飲むか聞かないで、同じものを二つ頼んでくれる。それが嬉しかったのか、ちょっとだけ複雑だったのか、自分でもよくわからなかった。好きと「違うかも」がそっと同居していた、あの頃の感覚。
「ありがとう」
言ったら、コウが少し間を置いて言った。
「さっきのお返し」
「さっき?」
「寄ってくれたの」
気づいてたんだ。
私が体を傾けたことを、黙ったまま気づいていたんだ。あの瞬間ずっと前を向いていたくせに。何も言わなかったくせに。
喉の奥が、少し詰まった。泣くとか、そういうことじゃない。ただ、ぎゅっとした。言葉にしなかったことを、ちゃんと受け取ってくれていたということが、何より、受け取った上でずっと黙っていてくれたということが、胸の真ん中に当たった。
黙ってた意味、なかったじゃん。そう思った。思ったけど、言わなかった。
代わりにコーヒーを飲んだ。熱いのに急いで飲んだ。カップを両手で持って、顔に近づけて、湯気で顔が赤くなっているふりをした。コーヒーのせいにするために。ちゃんとごまかせていたかは、今でもわからない。
あの夜のことを思い出すとき、イルミネーションよりも、カフェのコーヒーよりも、肩の感覚だけが残っている。コートの上から伝わってきた、体温。言葉じゃなかったもの。
言わなかったことの方が、ずっと長く体に残る。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。