終電を3本見送った夜、あの人はもう誰かのものになっていた
広告代理店に勤める26歳の私は、終電を逃しながら仕事をしていた。久しぶりに連絡した相手が「付き合ってる人いる」と返してきた夜、後悔よりも先に浮かんだのは、あの頃の私には何も選べなかった、という静かな事実だった。
渋谷の東急東横線のホームは、夜11時を過ぎると急に静かになる。
デジタルサイネージだけが煌々と光って、自分たちが作ったキャンペーン広告がそこに流れていた。「#今夜だけ本気出す」というコピー。クライアントには好評だったけど、見るたびに喉の奥に何か引っかかる気がした。
2023年の秋。私は週4で終電を乗り過ごしていた。
広告代理店に入って3年目。26歳。チームリーダーの肩書きだけもらって、実態はほぼひとりで3社のアカウントを回していた。MacBookのウィンドウは常に15枚以上開いていて、Slackの未読は三桁を超えたまま放置するのが習慣になっていた。マッチングアプリ——たしかOmiaiをダウンロードしたのは1年前だったけど、プロフィール写真を登録したまま一度もスワイプしないで放置してある。
そういう生活だった。
連絡が途切れた人間が何人いるか、数えるのをやめたのはいつ頃だろう。大学の同期、地元の友達、それから——浜田くん。
浜田くんとは、前の職場で半年だけ一緒だった。部署も違ったし、たいした接点もなかったけど、社内の喫煙スペース(私は煙草を吸わないのに、なぜかそこにいた)でよく話した。彼が転職してからも、年に2、3回はLINEが来た。「元気?」「最近どう?」みたいな、読み捨てには惜しい温度の言葉。私もそれに応えてはいたけど、ちゃんと会おうよ、という言葉は一度も使わなかった。
使えなかった、が正しい。
10月の初旬、残業帰りのタクシーの中で、ふと彼のLINEを開いた。最後のやり取りは7か月前。「桜、もう散ったね」「早かった」。その二行で止まっていた。
何かに背中を押されたわけじゃない。ただ、窓の外を流れる首都高の街灯が、妙に綺麗で、それだけだった。
「久しぶり。元気にしてる?」
送ってから、3秒後に既読がついた。夜中の0時過ぎなのに。
「元気だよ!久しぶりすぎ笑 どうした急に」
軽い調子に胸が緩んだ。返信しながらタクシーの窓に額をつける。冷たかった。
少し話した。仕事の話、近況の話。それで、私がなんとなく「最近ちょっと、息抜きしたくて」と送ったら、一拍おいて彼からこんな文字が来た。
「あ、でも俺、付き合ってる人いるから」
——何も、言ってない。
そう思ったけど、口には出さなかった。というか、打てなかった。「おめでとう」「そっか」「いつから?」全部打っては消した。最終的に「そうなんだ、よかった」と送った。5分かかった。
「ありがとう笑 なんか誘おうとしてた?」
「ううん、違う。ただ声聞きたかっただけかな」
これは本当のことだった。
彼からはそれ以上返ってこなかった。既読だけついた。たぶん、返し方がわからなかったんだと思う。私だってそうだもの。
タクシーが自宅マンションの前で止まった。渋谷から代官山まで、1800円。毎週こんなことをしている。
部屋に入って、シャワーも浴びずにソファに倒れ込んだ。天井を見た。まっ白で、何もない。
泣くのかなと思ったけど、目は乾いたままだった。
胸の中にあったのは後悔じゃなかった。もっと会っておけばよかった、とか、なんであの時連絡しなかったんだろう、とか、そういう鋭い痛みじゃない。もっとぼんやりした、重たいもの。
あの頃の私には、何も選べなかった。
それだけだった。
嘘じゃない。本当にそう思った。仕事が嫌いだったわけじゃないし、今でも嫌いじゃない。終電まで作業して、コピーが一行ハマった瞬間の感覚は、ちゃんと好きだった。代々木上原のクライアントのために徹夜した企画が採用された朝、コンビニのコーヒーが信じられないくらいおいしかったのも、覚えてる。
ただ、それをやっていた私には、それしかなかった。
浜田くんに連絡するエネルギーも、Omiaiを開く気力も、誰かと渋谷の映画館でポップコーンを買うための余白も、全部なかった。削ぎ落とされた状態で、毎日をぎりぎり乗り越えていた。そういう時期が、たしかに3年あった。
その3年に意味がなかったとは言えない。でも、「あの時こうすればよかった」と今さら悔やんでも、それは違う気もする。あの私に「もっと休め」「好きな人に連絡しろ」と言っても、たぶん聞こえなかった。
選べない状態というのが、ある。
スマホを手に取って、Spotifyを開いた。プレイリストの一番上に、あいみょんの「マリーゴールド」がある。大学の頃から変わらないやつ。流したら、イントロで少し、胸が詰まった。
泣けなかったのに、音楽では泣けた。よくわからない。人間ってそういうもんだと思う。
次の日、始業前に上司に話した。「仕事、少し減らしてほしいです」と。
上司は「え、急にどうした」と言って、私は「昨日、ちょっと色々あって」と言って、そこで止まった。うまく続かなかった。でも上司は「わかった、一回整理しよう」と言ってくれた。
それで十分だった。
今、私が後悔しているのは浜田くんのことじゃない。あの頃の自分のことも、責めてない。ただ、忙しさを盾にしながら、自分でも気づかないうちに「後回し」にしていたものの重さを、あの夜初めてちゃんと感じた気がする。
代官山の部屋の天井を見ながら思った。
選べない自分を、責めるよりも先に、知っておけばよかった。
選べない時期があった。それだけは、本当のことだ。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。