「楽しかった、またね」——それだけだった。あの夜、私たちは何かを言えなかった
3時間、バーで話した。帰り際、彼が何かを言いそうで言わなかった。私も言えなかった。帰宅して3時間後に「楽しかった」とLINEが来て、私は20分そのメッセージを眺めた。
渋谷のバーを出た時、22時を過ぎていた。
Pairsで彼——Kentoさん——と初めて会ったのは、その夜が初めてだった。待ち合わせは渋谷の19時。マークシティの前で会って、少し歩いて、円山町の路地にある小さなバーに入った。雨上がりの夜で、アスファルトが光を反射していた。10月の渋谷、路地の街灯が濡れた路面に揺れていた。カウンターだけの店に入ったとき、バーテンダーが無言でグラスを磨いていて、カウンターに座った瞬間から何か落ち着いた気がした。
カウンターだけの席。二人並んで座って、ウイスキーを飲みながら3時間話した。
話したこと。仕事のこと、好きな映画のこと(二人ともノーランが好きで、「インターステラー」か「メメント」かで意見が割れた)、失敗した料理の話、なぜかネコとイヌどちらが良いかの話(私はネコ派、彼はどちらでもない派)。特別な話じゃない。でも3時間が長いと感じなかった。ウイスキーのグラスが空になるたびに、バーテンダーが「お代わりは?」と聞いてきて、そのたびに「もう一杯」と言っていた。
2杯目のハイボールを飲んでいる頃、彼が何かを言いかけた。「あの、」で始まって、少し止まった。私は待った。バーカウンターの木の感触を指でなぞりながら、待った。彼が「あ、えっと、」と言って、話題を変えた。「今使ってるアプリってPairsだけですか?」と聞いてきた。
違う話になった。
3杯目は飲まなかった。「そろそろ」と彼が言って、お会計をした。彼がまとめて払おうとしたので「割り勘にしたい」と言ったら「じゃあ今日はいいです、次で」と言った。
次、という言葉。
店を出た。渋谷の夜は人が多い。円山町の路地から出ると、急に人の量が増えた。10月の夜気が首元に当たった。彼が渋谷駅まで一緒に歩いてくれた。西口の改札まで来て、そこで止まった。
「今日楽しかった」と彼が言った。
「私も」と私が言った。
彼が何かを言いそうだった。口が開いて、閉じた。また開いた。「あの、」のときと同じ間があった。何かを言いかけて、止まった。私は待った。改札の向こうで電車のドアが閉まる音がした。
「またね」
それだけだった。
改札を入った。電車に乗った。新宿で乗り換えて、総武線に乗った。窓に外の夜が流れていった。渋谷の灯りが消えて、代々木の暗さが来て、また新宿の光が来た。
「またね」か。
「またね」って、次に会う気があるってことか。それとも社交辞令か。「次で」って言ってたけど。言いかけて止まった「あの、」は何だったのか。3時間話して、会計のとき次の話をして、でも改札前で「またね」しか言えなかったのはなぜか。電車に揺られながら、そういうことを考え続けた。
考えながら帰り着いた。ワンルームのアパート。コートを脱いで、ソファに座って、スマホを眺めた。
彼からのLINEはなかった。あって当然じゃない。でもなんとなく眺めた。
風呂に入った。歯を磨いた。布団に入った。
日付が変わった頃。
通知。
「楽しかった。次、また行こう」
それだけだった。
私はそのメッセージを20分眺めた。
何がしたかったのか自分でもわからない。どこかに答えが書いてあると思ったのか。「楽しかった」の4文字と「次、また行こう」の7文字を、何度も読んだ。言いかけて止まった「あの、」が何だったのか、このメッセージからはわからない。わからないまま、20分が過ぎた。
スマホを握って、返信を打ち始めた。
「私も楽しかった。また行きましょう」
送ってから、「行きかけて止まった言葉のこと、いつか聞いていいですか」と続けて打った。1分くらい見つめて、送らなかった。次に会ったとき、直接聞けばいい、と思った。
次のデートは2週間後だった。下北沢のカフェで。「あの、」について聞かなかった。でも3時間、また話した。帰り道、今度は向こうから「聞いてもいいですか」と言ってきた。「あの夜、言いかけたこと、気づいてましたか」と。
気づいていた。全部。「あの、」のあと止まったこと、2回あったこと、「またね」になったこと。全部気づいていた。
言葉は届かなくても、躊躇は届いている。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。