52歳、娘に勧められてマッチングアプリを始めた
「お母さん、ユーブライドってアプリ入れてみなよ」。娘の一言で52歳がスマホと格闘した3ヶ月。「いいね」の意味がわからなかった初日から、同い年の男性と丸の内を歩いた日まで。
「いいね」の意味が、最初わからなかった。
52歳。離婚して8年。娘は26歳で、都内で一人暮らしをしている。私は横浜の2LDKに猫と暮らしていて、それで十分だと思っていた。パート先の書店と、週に一度のヨガと、月に2回の娘とのランチ。それが生活の全部で、寂しいと思ったことは——あった。正直に言えば、あった。
金曜の夜にテレビを消した後の静けさが、年々深くなっていた。
娘が言い出したのは、横浜のそごうのレストラン街でパスタを食べているときだった。
「お母さんさ、ユーブライドってアプリ入れてみなよ」
フォークが止まった。
「え、何それ」
「マッチングアプリ。婚活のやつ。50代の人もけっこういるって、会社の先輩が言ってた」
「いやいやいや。お母さんがそんなの使えるわけないでしょ」
「使えるよ。LINEできるなら大丈夫」
娘はスマホを取り出して、画面を見せてきた。手のひらが急に汗ばんだ。画面に並ぶ男性の写真。50代、60代。穏やかそうな顔。スーツの人もいれば、ゴルフウェアの人もいる。
「……お母さん、こういうの恥ずかしいんだけど」
「恥ずかしくないよ。お母さんまだ52じゃん」
「まだ、って」
笑ったけど、心臓がドキドキしていた。恥ずかしさと、認めたくなかった期待が、同時に来た。
登録に2日かかった話
その日の夜、ユーブライドをダウンロードした。ここまでは5分。問題はここからだった。
プロフィールの入力が進まない。「自己紹介文を書いてください」の空欄を前に、30分固まった。何を書けばいい。「52歳、バツイチ、猫がいます」。それだけ? それだけで誰かが興味を持つ?
写真が一番困った。スマホのカメラロールを遡っても、自分一人の写真がほとんどない。娘と一緒の写真、猫の写真、旅行先の風景。自分だけが映っている写真は、去年の秋に鎌倉の長谷寺で娘に撮ってもらった一枚だけだった。紅葉を背景に、少しぎこちなく笑っている。あごのラインが気になったけど、他にないからこれを使った。
「いいね」ボタンの意味を娘にLINEで聞いた。「気になる人に押すの。押したら相手に通知がいく」。ありがとう、で既読。
プロフィールを公開するまでに2日かかった。「公開する」ボタンを押す指が震えた。52歳の女が、ネットで相手を探している。世間からどう見えるんだろう。でも金曜の夜のあの静けさを思い出して、押した。
最初の1ヶ月は、ほぼ修行だった
3日目に最初の「いいね」が来た。55歳、会社員、千葉在住。プロフィールには「散歩と読書が趣味です」と書いてあった。
いいねを返して、メッセージのやりとりが始まった。でもここで気づいた。メッセージの書き方がわからない。LINEなら「了解」「OK」で済むけど、初めての相手に何を書けばいい。
「はじめまして。いいねありがとうございます。よろしくお願いします」
送った後に気づいた。これじゃ会社のメールだ。かといって若い子みたいにスタンプを連打するのも違う。
最初の1ヶ月で5人とメッセージをやりとりした。2人は返信が途絶えた。1人は会話が噛み合わなかった。「お仕事は?」「会社員です」「そうなんですね」「はい」。お互い質問を投げ合っているだけで、会話になっていなかった。
娘に相談したら「お母さん、面接みたいになってるよ。もっと普通に話せばいいのに」と言われた。普通に話す。それが一番難しかった。
「蕎麦が好き」から始まった
2ヶ月目に入って、一人の男性とマッチした。53歳、都内在住、メーカー勤務。プロフィールに「休日は蕎麦屋を巡っています」と書いてあった。
なぜかその一文に目が止まった。蕎麦屋巡り。私も蕎麦が好きだ。鎌倉に住んでいた頃、長谷の「鎌倉松原庵」によく行っていた。
「蕎麦がお好きなんですね。鎌倉の松原庵が好きでよく行ってました」
これが転機だった。返信が長かった。「松原庵、僕も行ったことあります! 長谷のほうですよね。あそこの鴨せいろが絶品で」。
蕎麦の話から、鎌倉の話になった。鎌倉の話から、横浜の話になった。横浜の話から、お互いの生活圏が近いことがわかった。メッセージのやりとりが「面接」じゃなくなった。
1週間やりとりした後、彼から「よかったら、一度お会いしませんか」と来た。手が震えた。52歳で初デートの約束。喉の奥が熱くなって、猫を抱きしめた。猫は迷惑そうにしていた。
丸の内のカフェで、2時間
待ち合わせは東京駅丸の内南口。日曜の午後。
何を着ていくか、前日の夜に3回着替えた。若作りはしたくない。でも「おばさん」に見えるのも嫌。結局、紺のブラウスにベージュのパンツ。娘に写真を送ったら「それでいいよ、お母さんらしくて」と返ってきた。
丸の内の並木道を歩いて、待ち合わせ場所に向かった。レンガ造りの駅舎がきれいだった。12月の空気が冷たくて、コートの襟を立てた。心臓がずっとドクドクいっていた。
彼は先に来ていた。写真より少し白髪が多くて、でも背筋がまっすぐで、柔らかい笑顔で立っていた。
「はじめまして」
声がうわずった。自分でわかった。でも彼も少し緊張しているようだった。「はじめまして、寒いですね」と言った声が、少しかすれていた。
丸の内のKITTEの中のカフェに入った。窓際の席に座って、私はカフェラテ、彼はブレンドコーヒー。
最初の10分は緊張した。でも彼が「松原庵の話、続きしましょうよ」と言ってくれて、鎌倉の蕎麦屋の話から入れた。そこからは自然だった。メッセージでやりとりしていた内容の延長線上にいる感覚。画面の向こうの文字が、目の前の声になった。
2時間話した。仕事の話、子供の話、離婚の話。離婚のことは、お互い淡々と話した。痛みは痛みとして認めつつ、でもそれを超えてここにいるという、50代なりの落ち着きがあった。20代の恋愛とは違う。キュンとする感じじゃなくて、「この人とまた話したいな」という穏やかな感覚。でもそれが、今の自分には一番しっくりきた。
帰り際、東京駅の前で「また会えますか」と聞かれた。
「はい」
即答だった。自分でも驚くくらい、すぐ出た。
娘に報告したら、泣かれた
その夜、娘にLINEした。「今日、会ってきたよ」。
5秒で既読がついた。すぐに電話がかかってきた。
「どうだった!?」
「うん、いい人だった。蕎麦の話で盛り上がった」
「よかったあ……」
娘の声が震えていた。泣いているみたいだった。
「ちょっと、なんで泣くの」
「だって、お母さんがさ、ずっと一人で寂しそうだったから。金曜の夜とか、テレビ消した後に電話かけてくるじゃん。あれ、寂しいからでしょ」
返せなかった。その通りだったから。
52歳のマッチングアプリ体験は、派手じゃない。ドラマチックな展開もない。スマホの操作に手間取って、メッセージの書き方に悩んで、着ていく服を3回着替えて。でもその全部が、金曜の夜のテレビを消した後の静けさから、少しだけ遠ざけてくれた。
始めるのが恥ずかしいと思っていたのに、始めなかった時間の方がもったいなかった。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。