水族館デートで告白するはずが、できなかった夜
品川の水族館、クラゲの青い光の中で言えなかった言葉。でも帰り際、改札の前でほんの少しだけ、本当のことが口から出た夜の話。
今日、言おうと決めていた。
マグカップにコーヒーを注ぎながら決めた。乗り換えアプリを開きながら決めた。マスカラを睫毛の根元に押しつけながら、鏡の中の自分に言い聞かせるように決めた。
品川駅の改札を抜けたのは、午後1時を少し回った頃だった。11月の風が首元をすり抜けていく。水族館の案内板に向かって歩きながら、スマホの地図アプリを閉じた。方向はわかってる。問題は、そこじゃない。
3回目のデートだった。
アクアパーク品川の入口で彼女を見つけたとき、胸の奥でなにかが収縮するような感覚があった。紺色のコートに白いマフラー。前髪を少しピンで留めている。会うたびに少しずつ違うのに、毎回「ああ、この人だ」と思う。
「待った?」
「全然。ちょうど今来たとこ」
嘘だった。15分前から周りをうろついていた。緊張を歩数で消化しようとするみたいに。
館内に入ると、光の色が変わった。外の白い冬の空から、深い青に。目が慣れるまでの数秒間、彼女の輪郭がぼんやりと滲んで見えた。水槽の中を大きな魚の影がゆっくり横切っていく。声が小さくなる場所だった。足音さえ、吸い込まれるみたいに消えていく。
クラゲのゾーンで、足が止まった。
壁一面に広がるほの青い光。傘を開いたり閉じたりしながら、クラゲたちが重力を無視して漂っている。上なのか下なのかもわからない、ゆっくりした動き。彼女がガラスに近づいて、顔を寄せた。その横顔に、青い光が落ちていた。
「きれいだね」
声に出てから気づいた。クラゲを見ていなかった、と。
「ほんとだ」と彼女は言った。目はまだ水槽の中にある。
私はそのままの姿勢で、しばらく動けなかった。ここで言えばよかったのかもしれない。水槽の青い光の中で、彼女の横顔を見ながら。でも口は動かなかった。なにかが喉のあたりで固まったみたいに、ただ呼吸しているだけだった。
イルカショーのエリアは、別世界みたいに明るかった。観客席に並んで座ると、彼女の肩がすぐ隣にある。「濡れてもいいの?」と聞いたら「せっかくだから前にしよう」と彼女が言った。水しぶきが届く距離。周囲の歓声の中で、「冷たい!」と笑う声が、なぜか耳の中に残った。
それだけで。それだけで十分な気がして、怖かった。
あわせて読みたい
同じ会社の人を好きになってはいけないと思っていた
社内恋愛はしない、と決めていた。別れたら地獄になる、噂になる、仕事がやりにくくなる。でも田園都市線の朝の電車が、その決意をゆっくりと溶かしていった。
ここで告白して、もし断られたら、この声の記憶ごと何かが変わってしまう気がした。イルカが水をかき、子どもたちが騒いで、彼女が笑っている。この夜が、まだ完成していない。完成させたくなかったのかもしれない。完成させた瞬間に終わるものがある、ということを、どこかで知っていたから。
出口に向かいながら、頭の中でカウントダウンを繰り返した。
ここで言う。次の曲がり角で言う。お土産コーナーを出たら言う。ご飯食べてから、ご飯食べながら、ご飯食べ終わったら。
全部、来なかった。
タイミングを待っているふりをしながら、本当はタイミングが来ることを怖がっていた。そういう矛盾した気持ちが、胸の中でぐるぐると同居していた。好き、でも言いたくない。言いたい、でも終わってほしくない。どっちが本当かもわからないまま、夜の品川の街に出た。
帰り際、品川駅の改札前に着いた。
人の流れが速い場所だった。スーツ姿のサラリーマンが横を通り抜けていく。電光掲示板が、次の電車の時刻を光らせている。
「楽しかった、ありがとう」
彼女がそう言った。マフラーを少し巻き直しながら。
「また行こうよ」
自分の口から出た言葉を、聞きながら思った。また、という言葉を選んだ理由が自分でもよくわかった。
「どこ?」
「また水族館でもいい」
「水族館好きだね」と笑われた。少しからかうような声だった。
次の言葉が出てくるまで、2秒か3秒、あったと思う。
「あなたと来るのが好きなんです」
あわせて読みたい
植物園を2時間歩いた、なんでもない午後の話
「どこでもいいです」という返答から始まった小石川植物園でのデート。特別なことは何もないはずなのに、ただ一緒にいる時間が、ずっと心に残っている。
声に出してから、心臓が跳ねた。告白じゃない。でも嘘でもない。今日ずっと言えなかったことの、輪郭だけみたいな言葉。
彼女は少しの間、黙っていた。
改札のざわめきが、遠くなった気がした。
「私も」
たった2文字だった。それだけだった。でも彼女は先に改札を抜けて、こちらを振り返らなかった。振り返らないまま歩いていく後ろ姿に、心臓がうるさかった。ずっとうるさかった。電車に乗り込んで、扉が閉まって、品川の夜が窓の外に流れていっても、まだ鳴っていた。
今ならわかる。
告白って、言葉の形をしていなくていいのかもしれない、とは思わない。ちゃんと言葉にしなきゃいけないことが、この世の中にはある。「好きです」という4文字には、他の何でも代わりになれない重さがある。
ただ、あの夜の「私も」は、本物だったと思う。
次は、ちゃんと言おう。クラゲの青い光の中でも、イルカショーの水しぶきの中でも、改札前の人混みの中でもなくていい。ただ彼女の目を見て、4文字を渡せる夜を、もう一度作ろうと思う。
完成させることを、怖がらずに。
言えなかった言葉は消えない。ただ、次に会う理由になる。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。