植物園を2時間歩いた、なんでもない午後の話
「どこでもいいです」という返答から始まった小石川植物園でのデート。特別なことは何もないはずなのに、ただ一緒にいる時間が、ずっと心に残っている。
「どこ行きますか」
彼からのLINEを読んで、私は返した。「どこでもいいです」
本当は思い浮かばなかったわけじゃない。銀座のバーとか、表参道のカフェとか、いくつか候補はあった。でも二十五歳になると、デートスポットを提案することすら、なぜか気負ってしまう。相手の期待値を勝手に高めてしまうのが怖くて。だからいつも「どこでもいいです」になる。
返信は来なくて、返信は来なくて。三十分くらい経ってから。
「小石川植物園、どう?」
植物園?という顔を、スマートフォンの向こう側で私はしていた。デートといえば、きらびやかな場所を想像していたから。でも反論する理由もなくて、すぐさま返した。「行ったことなかったのでいいです」
それ以来、私たちの会話のやり方が変わることはなかった。
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当日の午後三時。門賀橋門から入った小石川植物園は、六月の湿度を連れて、濃い緑色をしていた。
入場料を払って、中に入る。その時点では、私たちの関係がどうなるのか、本当に何もわかっていなかった。二回目のデートで、彼の好みも、価値観も、まだほんのわずかにしか知らない状態で。
右を見れば、樹齢の長そうな老木が枝を広げている。左を見れば、名前の知らない低い花が、雨に濡れた葉を揺らしている。空は灰色で、いつ降るかわからない空気が、肌に粘り着いていた。
「温室、行きます?」
彼が言った。私は頷いた。
ただ歩いた。
それが全てだったのに、なぜか何かを感じていた。温室の中は蒸し蒸ろしくて、肩が触れそうになっては離れて。大きな木を眺める時、彼は何も言わず、ただそこに立っていた。池の鯉を見るために柵に身を乗り出した時、彼が「落ちるよ」と言って、笑った。
特別なことは何もなかった。
でも。
「これ、なんていう植物かな」
私が聞いた。
「わからないね。調べてみる?」
彼が言った。
「調べなくていいか。きれいだから」
そう答えると、彼は「そっか」と呟いて、また歩き始めた。その呟きに、何かが詰まっていたような気がした。きれいで十分、という私の言い方に。何か同意してくれたような。
ポケットの中で、両手は何度も握ったり緩めたりしていた。
会話は不規則だった。話す時もあれば、黙って並んで歩く時もある。その間隔が心地よいのか、居心地悪いのか、その判断さえ揺らいでいた。好きかもしれない。でも違うかもしれない。そういう状態のまま、二時間は過ぎていった。
正門のそばのベンチに、腰を下ろした。
「気持ちいいね」
彼が言った。
「そうですね」
私が答えた。
それ以上、何も言わなかった。言葉にすると、壊れてしまいそうだったから。この沈黙が、続いてほしかったから。
でも沈黙は続かず、彼は「そろそろ帰ろうか」と立ち上がった。
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別れ際は、駅の改札の前だった。
「楽しかったです」
私が言った。
「そうですか」
彼が言った。
顔が熱くなった。「そうですか」って何だろう。もっと何か、欲しかった。「俺も」とか。「また行きたい」とか。でも彼の口からは出なくて。
「また来ますか」
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私が聞いた。
「来ますよ」
「二人でですか」
「二人で」
その時の彼の声は、違ったと思う。最初よりも、何かが柔らかくなっていた。
約束になった。
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あれから三週間が経って、今、私はこの日のことを思い出している。
深夜一時。ベッドの上で、スマートフォンの光を顔に受けて。
一番普通の午後が、一番好きな記憶になるっていうのは、本当なんだと思う。特別な日じゃなかったから。何もしなくていい時間だったから。映画なら映画の話をしないといけない。食事なら食べながら会話が生まれないといけない。でも植物園は、ただいればそれでよかった。名前の知らない花を一緒に見て、知ろうとしなくて、それで十分だった。
歩きながら話して、黙って植物を見て、また話す。その自然な流れの中にいる時間が、何かを教えてくれていた気がする。相手のことを知ろうとすることより、知らないことを一緒に受け入れることの方が、時には大切なんだっていう。
スマートフォンを置いて、天井を見つめた。
きれいで十分、というのは、そういう関係のことを言ってたのかもしれない。
何もしなくていい時間が、一番欲しい時間なんだ。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。