同じ会社の人を好きになってはいけないと思っていた
社内恋愛はしない、と決めていた。別れたら地獄になる、噂になる、仕事がやりにくくなる。でも田園都市線の朝の電車が、その決意をゆっくりと溶かしていった。
社内恋愛はしない、と決めていた。
理由なんて、すぐに三つ出てくる。別れたときが面倒くさい。噂になる。仕事がやりにくくなる。恋愛と仕事は、きれいに切り分けておくほうがいい。そう信じていたし、そう信じていたかった。
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十一月の渋谷駅は、いつも人の体温でぬるい。
ハチ公口から地下に降りて、田園都市線のホームに向かう長い通路。その日も満員で、肩がぶつかりそうになりながら歩いていた。乗り換えの流れに乗って階段を降りたとき、ふと隣に彼女がいることに気づいた。同じ部署の、でも話したことはほとんどない、あの人。
「あれ、同じ方向ですか」
彼女が先に言った。私は少し驚いて、「そうみたいですね」とだけ答えた。それだけだった。本当に、それだけのことだった。
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それから毎朝、顔を合わせるようになった。
意図したわけじゃない。ただ出る時間が同じだっただけで、改札を抜けると自然に並んで歩いていた。最初は挨拶だけ。「おはようございます」「おはようございます」。それだけの関係が、冬が深まるにつれて、少しずつ変わっていった。
「昨日の会議、大変でしたね」
「今日また寒くなりましたね」
たわいもない言葉が、積み重なっていく。二子玉川を過ぎたあたりで座れるときは、隣に座るようになった。肩が触れそうで触れない距離。電車の揺れに合わせて、少しだけ体が傾く。窓の外は冬の多摩川で、水面が朝日でひかっていた。
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Spotifyの画面を、彼女に見られたのはいつだったか。
確か、二月に入ったころだったと思う。席が隣になって、イヤホンを片耳だけつけて音楽を聴いていたら、「あのミュージシャン好きなんですか」と彼女が言った。画面をのぞいていたらしい。
「好きなんですよ」と答えたら、「私も」と言った。
それだけで、何かが変わった気がした。変わった、というか、何かが動いた。胸の中の、静かな場所が。
その日から、イヤホンを片方ずつ分けて聴くようになった。左耳と右耳。同じ音楽が、二人の間を流れていく。窓の外の景色が流れて、電車が揺れて、どちらも何も言わないまま、曲が終わった。
これは、なんだろう。
そう思いながら、思わないふりをした。
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気づいたのは、ある朝のホームだった。
私が少し遅れて改札を抜けると、彼女がもう来ていて、人混みの中から手を振ってきた。小さく、でも確かに。
胸の奥がじわっとした。
温かい、というより、痛い。でも痛くない。そのどちらとも言えない感覚が、肋骨の裏側あたりに広がって、私はその瞬間、ああそういうことか、とわかってしまった。
好きだ。
わかってしまったのが、少し、怖かった。
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三週間、迷った。
「もし振られたら、毎朝電車で顔を合わせるのが地獄になる」という恐怖は、本物だった。改札を抜けるたびに顔を背ける未来。会議室で目が合わないようにする未来。田園都市線が、通勤という名の罰になる未来。
頭の中でシミュレーションしては、やめようと思った。思っては、でもと思った。
深夜、Spotifyで彼女に教えてもらった曲を聴きながら、スマホの画面を天井に向けて、いつまでも眠れない夜があった。言えばいい、とわかっていた。言えない理由も、ちゃんとあった。その両方が本当で、どちらも嘘じゃなかった。
好きと、違うかもしれない、が、同時に自分の中にあった。
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結局、言ったのは月曜日の朝だった。
渋谷を出て、池尻大橋を過ぎたあたり。電車の中は混んでいて、でも二人分のスペースだけ、静かだった。
「好きです。迷惑だったら、ごめんなさい」
言ってしまってから、心臓がうるさかった。電車の音が遠くなった。彼女が少し間を置いて、
「迷惑じゃないです」
と言った。それだけだった。でも、それで充分だった。
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付き合い始めてから、社内では何も変わらなかった。
会議室では普通に話して、廊下ですれ違っても軽く目を合わせる程度。噂にはなっていないと思う、たぶん。仕事がやりにくくなったかといえば、なっていない。あの頃の私が恐れていたことは、今のところ、何も起きていない。
でも毎朝の電車が、変わった。
隣に座るのが当たり前になって、イヤホンを片方渡すのも、ただそれだけのことになった。渋谷から二子玉川まで、窓の外に多摩川が見えたり見えなかったりして、曲が流れて、電車が揺れる。彼女の肩が、私の肩に触れている。
それだけのことが、今は一番、大切な時間だと思っている。
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社内恋愛はしない、と決めていたのは、怖かったからだ。
傷つくのが怖かったし、傷つけるのも怖かった。毎朝会う人を好きになるのは、逃げ場がなさすぎる。だからルールを作って、最初から近づかないようにしていた。
でも彼女は、渋谷駅の人混みの中から、手を振ってきた。
怖いまま、言った。それが全てだった。
怖くなくなってから動こうとしても、その日は永遠に来ない。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。