3ヶ月間、名前も知らない人の有酸素→ウェイト→ストレッチを、ずっと目で追っていた
代々木上原のジムで週3回すれ違い続けた3ヶ月。話しかけられなかったのに、いない日だけ気づいてた。あの「ケーブルのセッティング」がなければ、今でも他人だったかもしれない。
夜7時の更衣室は、いつもシャンプーとクロロフィルウォーターの匂いがした。
代々木上原駅から徒歩3分、エレベーターで4階に上がるといつも同じ顔ぶれがいる。痩せたいわけじゃなかった。強くなりたいのかと聞かれれば、それも少し違う。ただ週3回この時間にここへ来ることが、生活のリズムになっていた。
その人のことも、最初はそういう「いつもいる人」のひとりだった。
有酸素から始めて、ウェイトに移って、最後はストレッチ。ルーティンが私とほぼ同じだった。だから視界に入る。それだけのことだと思っていた。最初の1ヶ月は。
「この人、いつもいるな」
それが変質するのに気づいたのは、2ヶ月目が終わるころだった。気づいた、というよりも、あとから気づいた。ある火曜日、ジムに入ってトレッドミルのフロアを見渡して、いない、と思ったとき。胸のあたりが——なんというか、空気が抜けた感じがして。その感覚を持て余したまま、いつもより10分早くジムを出た。
好きかどうか、わからなかった。
名前も知らない、声を聞いたこともない人を好きになれるのか、という話ではなくて。好きという言葉がその感覚に合っているのかが、わからなかった。ただ、いない日だけがわかる。それが3ヶ月という時間だった。
話しかけられなかった理由は、いくつかある。ジムはほぼ全員がイヤホンをしている場所で、声をかけるための隙間がどこにもなかった。話しかけられないという以上に、話しかける口実がなかった。「同じ時間に来てますよね」は言えない。「よく見てましたよね」と言われたら、なんと答えるのか。実際よく見ていたから。
Spotifyのシャッフルで知らない曲が流れるまま、ただペダルを漕いでいた夜が何度あったかわからない。
きっかけは、本当に偶然だった。
11月の、冷えが床から這い上がってくる夜。ケーブルマシンのそばでプレートの位置を調整していたら、横に気配がした。
「あの、このケーブルのセッティング、どうやるんですか」
声を、初めて聞いた。思っていたよりも低くて、少し照れているような感じがした。
「こうです」と言いながら実際にやってみせた。説明しながら、心臓がうるさかった。それを悟られていないかどうかばかり考えていた。
「ありがとうございます。あの、いつも見かけますよね」
向こうから言った。私が3ヶ月かけて言えなかったことを、あっさり。
「そうですね、よく来てます」
我ながら素っ気なかったと思う。でもそれで話が始まった。何ヶ月通っているか、どこの駅を使っているか。同じ駅だとわかったとき、なんだか笑ってしまった。3ヶ月、同じ電車に乗っていたかもしれない。
「ジムの後、どこかで話しませんか」
自分でも驚いた。そんな言葉が出てくるとは思っていなかった。
「いいですよ」
即答だった。
シャワーを浴びて、駅近くのCaféMARUNIに入った。注文したホットコーヒーが少し渋くて、でも温かかった。ジムの話から、趣味の話になって、音楽の話になった。お互いがASIAN KUNG-FU GENERATIONが好きだとわかったとき、「本当に?」と声が重なった。
「3ヶ月くらいすれ違ってましたね」と言ってみた。
少し間があった。
「実は、話しかけようと思ったこと、ありました」
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「——なんで言わなかったんですか」
「なんとなく」
なんとなく。その言葉がおかしくて、ふたりで笑った。私も同じだったから。理由なんてなかった。きっかけがなかったというよりも、踏み出せなかっただけで、3ヶ月という時間はただそこにあっただけだった。
帰り道、代々木上原の改札を抜けるところで「また今度、ジムの後に飯でも行きますか」と言ったら「ぜひ」と返ってきた。風が冷たかった。マフラーに顔を半分埋めながら、ひとりで帰りながら、なんだかずっと口元が緩んでいた。
あれから半年が経った。
今でもジムは一緒に行く。有酸素から始めて、ウェイトに移って、最後はストレッチをして帰る。順番は変わっていない。でも隣のマシンに彼がいることの意味は、あのころとまったく違う。「この人、いない」と気づいて胸が空いた夜のことを、今なら笑って話せる。当時は笑えなかったけれど。
好きと「なんで好きなのかわからない」は、同時にある。今だってそうだ。名前も知らなかった人が、今は隣でストレッチをしている。人生ってよくわからない、と思う。
あのケーブルマシンの質問がなければ、きっと今日もすれ違っていた。
踏み出せなかった3ヶ月より、踏み出した一瞬のほうが、ずっと長く続いている。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。