写真が趣味の人と、東京中を歩いた3ヶ月間
「今日の写真がよかったから」——意味不明なのに、なぜかわかった気がした。谷中から神楽坂まで、カメラを持った彼と歩いた3ヶ月のこと。
「写真撮りながら街歩きが趣味で」
マッチングアプリのプロフィールに、そう書いてあった。深夜1時、布団の中でスクロールしていた指が、そこで止まった。
「私もそういうの好きです」
送ったのは衝動みたいなもので、返事が来るとは半分しか思っていなかった。でも翌朝、通知が来た。「どの街が好きですか」。窓の外はまだ薄暗くて、コーヒーメーカーがじわじわと音を立てていた。
「谷中と根津のあたりが好きです」と打つと、すぐに「行きましょうか」と返ってきた。
早くない? と思った。でも、嫌じゃなかった。
---
10月の谷中は、金木犀がまだ少しだけ残っていた。
改札を出たとき、彼はもうそこにいた。黒いカメラストラップを首にかけて、スマートフォンを見ていた。待ち合わせの人間にしては、妙に落ち着いた佇まいだった。緊張しているのか、していないのかがわからなかった。私はといえば、来る途中の電車の中でリップを塗り直して、イヤリングを外して、また付け直した。
「谷中銀座、行ったことありますか」と彼が歩きながら言った。
「何度も」と私は答えた。
「じゃあ、いつもと違うルートで行きましょう」
彼はすぐに路地へ入った。地図も見ずに。古い木造の家が並ぶ細い道で、猫が一匹、塀の上で丸まっていた。彼はそこで立ち止まって、カメラを構えた。シャッターの音がした。また歩く。また止まる。光の差す路地の角で、また止まる。
「これ何が面白いんですか」
気がついたら聞いていた。失礼だったかもしれない、と思った瞬間に、彼がカメラの画面を向けてきた。
「光が面白くて」
見たら、確かに面白かった。私が見ていたのと同じ路地なのに、画面の中の影の形が全然違う。同じ場所に立っていたのに、見えているものが違った。
「写真教室とか行ってたんですか」
「独学です」
それだけ言って、また歩き始めた。話が上手いわけでも、気を遣ってくれるわけでもない。でも不思議と、沈黙が苦しくなかった。私たちはそれぞれのペースで立ち止まって、それぞれのカメラとスマホで、同じ街を撮り続けた。
---
3ヶ月で、たくさんの街を歩いた。
下北沢の古着屋が並ぶ路地。神楽坂の石畳。深川・清澄白河の倉庫跡。浅草から向島まで隅田川沿いをぶらぶら歩いた日曜日。等々力渓谷で足元が濡れて、阿佐ヶ谷の商店街でコロッケを立ち食いした。
毎回、「これ見てください」と互いに写真を見せ合った。同じ場所から撮っているのに、毎回違う。彼の写真は影が深くて、余白が多かった。私のスマホには、なぜか人の手とか、窓の光とか、そういうものが多かった。
ある日、清澄白河のArisenコーヒーでアイスラテを飲みながら、彼がぽつりと言った。
「あなたは温かい色が好きですね」
「そうですか」
「ずっとそういう写真を撮ってる」
3ヶ月分の私のスマホのアルバムを、頭の中で再生してみた。確かに、オレンジの光ばかり選んでいた。夕方の窓。錆びた看板。古い暖簾の色。自分でも気づいていなかったことを、彼は3ヶ月かけて見ていた。
胸の奥が、じわっとした。
これは何だろう、とそのとき思った。好きなのか、好きじゃないのか、まだよくわからなかった。彼のことが好きなのか、彼と歩くこの時間が好きなのか、それすらはっきりしなかった。ただ、次の週も会いたいとは思っていた。
---
告白は、神楽坂だった。
11月の終わり、夕方5時を過ぎると空がすぐ暗くなる季節。石畳の坂を並んで歩いていたら、彼が急に立ち止まった。
「好きです」
短かった。飾りがなかった。
「……なんで今ですか」
反射的に聞いた。なぜそれを聞いたのか、自分でもよくわからない。ドキドキしているのか、戸惑っているのか、両方が混ざって判別がつかなかった。石畳の隙間から、枯れ葉が一枚、風に飛んでいった。
「今日の写真がよかったから」
あわせて読みたい
フェスで偶然会った人と、テントの中で朝まで話した夏
苗場の夜、みんなが笑うより少し遅れて笑う人がいた。人混みに押されて、気づいたら隣にいた。空が白くなるまで話して、寝るのが惜しかった、あの夜のことを。
彼はそう言った。
意味不明だった。写真と告白になんの関係があるんだろう、と頭の片隅で思った。でも同時に、なんとなくわかった気がした。彼にとって、写真は言葉だったのかもしれない。私がどんな光を選んで、どんな色に惹かれているかを、3ヶ月かけて読んでいた。それが今日、何かに届いたのかもしれない。
「私も好きです」
言ったら、彼がカメラを持ち上げた。
「撮っていいですか」
「……どうぞ」
石畳の坂の途中で、私は立ったままシャッターを向けられた。どんな顔をしていたのか、わからない。でも、その写真は今も彼の部屋に飾ってある。先週見たら、ちゃんとそこにあった。
---
思い返すと、あの3ヶ月間、私たちはほとんど感情の話をしなかった。「楽しい」も「好き」も、直接口にしなかった。ただ同じ街を歩いて、同じ路地で別々のものを見て、それを見せ合っていた。
でも今なら思う。あれは全部、会話だったのだと。
私が温かい色ばかり撮っていたこと。彼が私の写真を3ヶ月分、ちゃんと覚えていたこと。言葉にしなくても、何かが伝わっていた。
好きな人に「あなたのことを見ていた」と言ってもらえる方法は、たぶん一つじゃない。
同じ街を歩いて、あなたが何に立ち止まるかを、ただ隣で見ていること。それだけで、充分だったりする。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。