恋のアーカイブ
恋愛体験談

カラオケで告白されたのに、曲名を覚えていない

11月の新宿、赤い照明の狭い部屋。彼女が「好きです」と言った瞬間、流れていた曲を私たちはふたりとも覚えていない。でも、手が触れた感触だけは、今もはっきりと残っている。

·橘みあ·6分で読める

4回目のデートがカラオケだった。


11月の土曜日、夜9時。新宿歌舞伎町のカラオケ館、エレベーターで5階まで上がって、案内された小さな部屋。外の喧騒が、扉を閉めた瞬間にぴたっと消えた。あの静寂が、今でも耳の奥に残っている。


正直に言う。行きたくなかった。


マッチングアプリで出会って3回デートして、だいたいの輪郭はわかってきた頃だった。カフェ、美術館、夕飯。それなりに積み上げてきたものがあって、でも4回目に「カラオケ行きたいんですけど」と言われたとき、一瞬だけ顔が引きつった気がする。音痴ではない。ただ、知らない人に声を聞かせるのが、どうしようもなく苦手なだけで。


それでも「いいよ」と答えた。彼女が「行きたい」と言うなら、それでよかった。


部屋はソファが向かい合っていて、テーブルを挟んでいるのに距離が近い。赤みがかった照明が天井から落ちていて、画面だけが妙に白く光っていた。タンブラーに入ったウーロン茶を両手で持って、リモコンをいじる彼女を、なんとなく見ていた。


「最初は何入れますか」

「先にどうぞ」

「じゃあ……」


あいみょんの「マリーゴールド」が流れ始めた。


前奏の最初の音で、あ、知ってる、と思った。それだけだった。その時点では、まだそれだけだった。


彼女は感情を込めて歌っていた。声が安定していた。音程が一切ぶれない。歌いながらときどき照れくさそうにこっちを見て、また画面に戻って、また見て、また戻る。その繰り返し。歌詞に「あなた」という言葉が出るたびに、彼女の視線がほんの少しこっちに向く気がした。気のせいかもしれない。


気のせいじゃなかったと、後から思う。


歌い終わって、「うまいですね」と言ったら、「ありがとうございます、よく言われます」と笑った。頬が少し赤かった。照明のせいかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


そのとき、お腹の奥の方が、きゅっとなった。


はっきりした気づきじゃなかった。じわっと、染み込んでくる感じ。「そうかもしれない」じゃなくて、「そうだ」という確認。好きだ、という言葉が、頭の中で声もなく転がった。


次に私が曲を入れた。Official髭男dismの「Pretender」。自分でも選んだ理由がわからない。「なんで選んだの」と聞かれたら答えられなかった。手が動いていた。それだけ。


前奏が流れた。歌い始めた。序盤から喉の調子がよくなかった。声がうわずった。恥ずかしかった。でも途中でやめることもできなくて、画面の歌詞を目で追いながら、無心で声を出し続けた。


「どうせ僕じゃ届かない夢とわかってても」


そのあたりで、意識が少し遠くなった。白い字幕がぼんやり見えた。歌詞を読んでいるのか、読んでいないのか。


「好きだって言えなかった」


画面が見られなくなった。


なんとか最後まで歌い終わって、深呼吸した。次の曲を入れようとリモコンを持ったとき、指に触れてきた。


ほんの少しの体温。


「あの」


振り返った。


「好きです」


それだけだった。飾りも前置きも何もなかった。ただ、「好きです」という三文字が、赤い照明の中に落ちてきた。


そのとき、音楽が流れていた。誰の何の曲かは覚えていない。歌詞も何も入ってこなかった。天井の赤い照明と、彼女の輪郭と、自分の指に触れている体温だけが、はっきりと存在していた。


どのくらい間があったのか。5秒か、30秒か。体感の時間なんてあてにならない。


「私も」


それだけ言えた。


そのまま、ふたりとも画面を見た。次の曲が流れていた。何の曲かは、やっぱりわからない。ふたりとも歌わなかった。ドリンクを飲む音だけがして、タンブラーの中の氷が溶けていく音が、やたらと大きく聞こえた。


しばらくして、「言えてよかった」と彼女が言った。「もっと早く言いたかったんですけど」とも。声が少し震えていた。


「なんで今日だったんですか」


「カラオケって、緊張すると言いやすくなる気がして」


「最初からそのつもりでした?」


「半分くらい」


笑われた。私も笑った。さっきまでの静寂が、少し柔らかくなった気がした。歌舞伎町の11月の夜、狭い部屋の中で、ふたりの体温だけが確かにそこにあった。


あとになって聞いた。「あのとき流れてた曲、覚えてる?」


「全然覚えてない」と彼女は言った。


「私も」と私は言った。


あの瞬間の曲を、ふたりとも覚えていない。カラオケで告白されたのに、そのBGMが何だったのかを、どちらも答えられない。でも不思議と、それでよかった。曲の名前なんて、あの瞬間には必要なかったのだと思う。


残っているのは別のものだった。「好きです」と言ったときの彼女の声のトーン。天井の赤い照明。指に触れてきた、あの少しの体温。そういうことだけが、ちゃんと、ずっと残っている。


記憶って、音楽じゃなくて、皮膚で作られるのかもしれない。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

この記事が刺さったら、シェアしてください

恋愛体験談」はまだ 185 本あります

恋愛体験談をすべて読む

次の記事

初デートでやったら終わる5つのこと