渋谷から池袋まで、「近くにいました」と嘘をついて来てくれた
まだ4回しか会っていない人が、38度の熱の夜に現れた。コンビニの袋を提げて。「近くにいたので」という言葉が嘘だとわかったのは、30分後のことだった。
11月の夜、部屋の温度が下がっていくのに気づいても、布団から出る気になれなかった。
体温計の数字は38.2。窓の外、池袋の雑踏の音だけが遠く聞こえていた。脱ぎっぱなしのコートが椅子の背もたれにかかっている。ゆうべ帰ってきたときのまま。片付ける気力もなかった。
スマホを見たら「大丈夫ですか?」というLINEが来ていた。彼からだった。
彼、と言っても、まだ4回しか会っていない。ちゃんと付き合ってもいない。「また会いましょう」と言い合って、週に2〜3回LINEをしている、名前のない関係。好きかどうかも、正直よくわからなかった。会うたびに「いいな」と思うけど、帰り道では「でも……」ってなる。そういう、宙ぶらりんの段階だった。
「風邪ひいた、熱あるかも」と返した。既読がついてすぐ「何度ですか」と来た。「38.2」と打ったら、しばらく間があった。
のどが痛くて、頭の奥が重くて、光が目に刺さる感じがした。スマホの画面を見ているだけでこめかみがずきずきした。早く寝たかった。
1時間後に「今から行ってもいいですか」というメッセージが届いた。
読んで、もう一度読んだ。
「え?」と返したら「近くにいたので」と来た。
近く。池袋の近く。深夜に。理由もなく。そんなことある? 頭が熱で重かったから、うまく考えられなかった。「散らかってますよ」と返した。言い訳だった。来てほしいような、来てほしくないような。でも来てほしい気持ちのほうが、すこし大きかった。
「風邪ひいてるのに掃除できないですよ」と返ってきた。
笑ってしまった。のどが痛いのに。
「……どうぞ」と送った。
布団の中で、ぼんやりと待った。部屋の電気をつけっぱなしにして、散らかったままで、ちょっとだけ枕を整えた。なんで枕だけ整えたんだろう、って、熱のある頭でふわっと思った。
30分後にインターホンが鳴った。
ドアを開けたら、コンビニの袋を提げていた。ローソンの白いビニール袋。中に、ポカリスエットのペットボトル、レトルトのおかゆが2個、のど飴、解熱剤。「近くのローソンで揃えました」と言った。ダウンジャケットを着て、少し息が上がっていた。
「ありがとうございます」と言ったら「ちゃんと食べてましたか」と聞かれた。
「昼から何も食べてないです」
「それはいけない」
責めるでもなく、ただ、それはいけない、と言って、部屋に入ってきた。台所に立って、おかゆを温め始めた。「どこに器ありますか」「上の棚の右」「ありました」という声が、壁の向こうから聞こえた。誰かが台所にいる音。電子レンジが回る音。お湯を注ぐ音。
普通のことのはずなのに、胸のあたりが、じわっとした。
差し出されたおかゆを食べた。薄味だった。体の中に、ゆっくり入ってくる感じがした。おかゆって、こんな味だったっけ、と思った。
「近くにいたって、本当ですか」
聞いてみたのは、なんとなく、だった。うまく追及する頭もなかったし、ただ気になっただけだった。
彼は少し黙った。
「……渋谷にいました」
渋谷。池袋まで、山手線で20分以上かかる。深夜に、わざわざ。
「近くじゃないですよ」
「近かったつもりです」
視線を、そらされた。
そのとき初めて、あ、この人は本当に来てくれたんだ、と思った。近くにいたから来た、じゃなくて、来たかったから来た。それだけのことが、熱でぼやけた頭にじわじわと浸みこんできた。なんか、ずるい、と思った。こんなことされたら、どうすればいいんだろう。
2時間ほど、いてくれた。
ソファに並んで、テレビをつけて、何を見るともなく見た。体調が悪くて、あまりしゃべれなかった。しゃべる必要もなかった。「大丈夫ですか」と、だいたい20分おきに聞かれた。そのたびに「大丈夫です」と言った。大丈夫じゃなかったけど、大丈夫だ、という気持ちにはなれた。
横にいてくれる人がいるだけで、部屋の温度が変わる。知らなかった。
「長居しました、寝てください」と言って、立ち上がった。ジャケットを着て、玄関で靴を履いた。「ありがとうございます」と言ったら「また来ますよ、良くなったら連絡ください」と言われた。
「近くに来てくれてよかったです」と言ってみた。
「遠かったけど」
笑いながら、そう言って、ドアが閉まった。
布団に戻った。部屋に、誰かがいた痕跡があった。ソファのクッションの位置が少しずれていた。台所のシンクに、おかゆの器が洗って置いてあった。テーブルの上に、ポカリスエットが三口分と、開いたのど飴の袋。
さっきまで誰かがここにいたこと。もうひとつの体温があったこと。
それが、じわじわと、体のどこかに残っていた。
翌朝、「熱下がりましたか」とLINEが来た。「下がりました」と返したら「よかった」と来た。窓から差し込む朝の光の中で、スマホを持ったまま少し止まった。
「なんであんなに来てくれたんですか」
打ってから、送るか迷った。でも送った。
しばらくして「心配だったから」と返ってきた。
それだけだった。それだけで、十分だった。
好きか、という問いへの答えはまだわからなかった。でも少なくとも、あのとき渋谷から来てくれた人のことを、もう少し知りたいと思っている。それだけははっきりしていた。
風邪の夜に来てくれた人は、「近く」という嘘もセットで持ってきていた。その嘘が、やさしさだったとわかるまでに、一晩もかからなかった。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。