5回目のデートの朝、私たちはまだ「友達」のふりをしていた
名前をつけた瞬間に、壊れる可能性が生まれる気がしていた。中目黒の朝、コーヒーが冷めていく速さで、私たちはずっと「友達」のふりをしていた。
5回目のデートは、夜から始まって朝になった。
10月の中頃。中目黒のバーに着いたのは21時すぎで、外は本格的に冷えていた。目黒川沿いの照明が水面に溶けて揺れていて、歩くたびに革靴の音が石畳に跳ね返ってきた。店の中はウイスキーとタバコが混ざった匂いがして、BGMはlow-fiのジャズ。カウンターに並んで座った。肩と肩の距離が、前回より少しだけ近かった気がした。気がした、だけかもしれない。でも確認する勇気もなかった。
閉店まで居座った。話した内容はほとんど覚えていない。ただ、笑っていた時間が長かった。タクシーに乗って、気づいたら彼の部屋の前にいた。中目黒から5分くらい。どちらも「入る?」と言わなかった。でも私は靴を脱いでいた。
誰が先に動いたのか。わからない。ただ気づいたら、玄関の照明がついていた。
朝6時。コーヒーを飲みながらベランダに立って、窓の外を見ていた。通勤前の街が、静かに動き始めていた。空が薄いオレンジから白に変わっていく、その境目の時間。マグカップが手のひらに温かかった。隣に彼がいる。それだけがはっきりしていた。他のことは全部、霧みたいにぼんやりしていた。
「友達みたいだね、私たち」
口から出てから、どうしてこんなことを言ったのか自分でもわからなかった。嘘だった。自分でわかっていた。友達なんかじゃない。でもその言葉を選んだのは、もっと正確な言葉を使うのが怖かったからだと思う。名前をつけた瞬間から、それが壊れる可能性が生まれる気がして。
彼は少し間を置いて、「そうかも」と言った。
嘘だった。二人ともわかってた。
最初に会ったのは渋谷のカフェだった。Logsというカフェで、スクランブル交差点から少し路地に入ったところにある。共通の友人に紹介されて、「とりあえず会ってみたら」と言われて、あまり期待しないまま行った。「こんにちは」と言ったら、「こんにちは」と言い返してきた。たったそれだけのことに、なぜか喉の奥が緩んだ。構えていた何かが、その挨拶一回で静かになった。
2回目は代官山をぶらぶらした。特に目的なく、ヒルサイドテラスの周りを歩いて、おしゃれな雑貨屋を覗いた。「これ何に使うんですかね」「使い道がない方が好きなんじゃないですかね」「それはわかる気がする」。2時間かけて何も買わなかった。でも帰り道、電車の中で一人になってから、ずっとそのやり取りを反芻していた。意味のない会話を、意味があるみたいに思い返していた。
3回目は映画だった。新宿のTOHOシネマズ。エンドロールが流れ始めても、席を立てなかった。隣に座ったまま、小声で映画の話をした。「あのシーン、どういう意味だと思う?」「わかんない」「わかんないよね」。わかんない、で終わるのに、全然急いでいなかった。その「わかんない」が、心地よかった。
4回目は彼の好きなラーメン屋に連れていってもらった。西荻窪の、細い路地にある小さな店。食べながら「次はどこ行く?」と聞いたら「また決めよう」と笑った。その「また」という言葉が、ちゃんと自分の中に落ちてきた。約束じゃない。でも約束みたいな温度があった。
毎回、帰り際に少しずつ長くなる立ち話。改札の前で「じゃあ」と言いながら立ち去れなくて、また話す。「そういえば」「あと一個だけ」。それを繰り返した。誰も改札を通らなかった。
それが5回続いて、朝になった。
もうコーヒーが半分減っていた。街の音が少しずつ大きくなっていた。遠くでバイクのエンジン音がして、鳥が鳴いた。それから彼が言った。
「好きだよ」
ベランダの風が少し冷たかった。カップが温かかった。心臓の音が、恥ずかしいくらいはっきりと聞こえた。奥歯を噛んだ。視線を川の方に向けたまま、少しも動けなかった。
「知ってた」と言ったら、「じゃあなんで何も言わなかったんだよ」と笑われた。
わからない。正確には、わかってる。怖かったから。終わるのが怖かった。名前をつけた瞬間から、壊れる可能性が生まれる気がして。名前のないままここにいれば、少なくとも「終わり」は来ない。そう思っていた。でも同時に、名前のないまま続けることの重さも、ずっとわかっていた。コーヒーを一口飲むたびに、その重さを飲み込んでいるみたいだった。どちらにも踏み出せないまま、5回目の朝を迎えていた。
「じゃあ今から名前つける?」と彼が言った。半分冗談みたいな口調だった。半分だけ。
コーヒーを飲み干して、「つけよっか」と言った。
小声だったけど、聞こえてた。ちゃんと、聞こえてた。
空がもう、オレンジじゃなくなっていた。
名前をつけるのが怖いのは、失いたくないからじゃない。失う「何か」がそこにある、と認めることが怖いのだ。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。