恋のアーカイブ
恋愛体験談エッセイ

帰り道ずっとわからなかった「また来ますか?」の主語。夜中まで迷った

吉祥寺の雑居ビルの読書会で隣に座った人が、2時間で別の人になっていた。最後の「また来ますか?」の主語がわからないまま、夜風の中でずっと考えていた。本がつなぐ出会いと、その一言の意味を確認するまでの話。

29歳・女性の体験
·橘みあ·6分で読める

「また来ますか?」と言われたのに、主語がわからなかった。


BOOK AND BEDほど洒落てもなく、チェーンのコーヒーショップほど無機質でもない。本棚が壁一面にあって、席と席の間隔が少し狭くて、来た人みんなが少しだけ距離を縮めざるを得ない、そういう場所。月に一度の読書会は、告知を見たときから「まあ、行ってみるか」くらいの気持ちだった。友達に誘われたわけでも、誰かに会いたかったわけでも、たぶんなかった。


参加者は8人。


彼は、端の席に座っていた。今月の課題本——カズオ・イシグロの『クララとお日さま』——を、すでに膝の上に置いていた。付箋が何枚も貼られていた。読み込んできた人だとわかった。でも、それ以外の印象は、正直、薄かった。静かそうだな、と思った。おとなしく意見を聞くタイプだろうな、と思った。ほとんど自動的に、そう分類した。


自己紹介が一周して、ファシリテーターが口火を切った。


「クララって、信頼しすぎるじゃないですか」と彼が言った


「クララの視点で書かれることで、何が変わると思いましたか」


しばらく、沈黙が漂った。私は付箋を見ながら、さっきまとめてきた感想を頭の中で並べ直していた。そのとき、


「クララって、信頼しすぎるじゃないですか」


彼が言った。


声が、思ったより低かった。それより、言葉の切り口が——。


「人間のことを。だから読んでいて怖い。愛情の描写なのに、ずっと怖い」


私の胸の奥で、何かがひっかかった。それは正確に、私が言語化できていなかった部分だった。読んでいて感じていた、あの居心地の悪さ。信頼されているのに裏切るような感覚。それを彼は、こともなげに言葉にしていた。


会話が動き出した。


彼は、多弁ではなかった。でも、発言するたびに場の空気が少し変わった。誰かの意見に「それ、こういうことですよね」と言い換えるのがうまくて、その言い換えのたびに元の発言者が「そう、そう言いたかった」という顔をした。私もそのうちの一人になっていた。


1時間が経つころ、テーマがAIと感情の話に転がった。


「でも、クララって感情があると思いますか?」誰かが聞いた。


「ある、と思いたいんでしょうね、イシグロは」


また彼が言った。


「人間が」と私は口を挟んでいた。「信じたいだけなのかもしれない、クララに感情があるって」


彼がこちらを見た。少し間があって、


「それ、すごく意地悪な読み方ですね」


と言った。笑いながら。意地悪、と言われたのに、なぜか口角が上がった。正確に受け取ってもらえたときの感覚だと、あとで気づいた。


そこから、なんとなく発言のたびにお互いを意識するようになっていた。正確に言うと、私が意識し始めた。彼がどう思っていたかは、まだわからない。


笑いのツボが近かった。


ある参加者が「ジョジーはもっと感謝すべきだった」と言ったとき、私が思わず「ジョジーに何かを期待するのは……」と言いかけてやめたら、彼が「難しいですよね、ジョジーには」と引き取った。まったく同じテンションで。他の参加者は少し困惑した顔をしていたが、彼と私はほぼ同時に、静かに笑った。


そういう瞬間が、2時間の中に3回くらいあった。


会が終わった。本が片付けられて、コーヒーカップが下げられて、人が少しずつ席を立ち始めた。私もコートを取って、バッグに付箋だらけのメモ帳を押し込んだ。


会が終わって、彼が横に立っていた


「面白かったですね、今日」


気づいたら彼が横に立っていた。


「そうですね」と私は言った。「クララの話、また誰かとしたいくらい」


「また」と彼は繰り返した。それから少し考えるような間があって、「また来ますか、次回も」


その一文が、空気の中に置かれた。


私は一瞬、止まった。


読書会に、来ますか。それとも——。


主語がなかった。「読書会に」という言葉がなかった。ただ、「また来ますか、次回も」。会話の流れで言えば、読書会の話をしていたのだから、当然そういう意味のはずだった。でも、「また」の前に一瞬あった間が、脳裏から離れなかった。


「たぶん、来ます」


と私は言った。


「たぶん」と彼は笑った。「正直ですね」


それだけだった。


階段を下りて、吉祥寺の夜の空気に出た。10月の終わりで、風が少し冷たかった。駅に向かいながら、私はさっきの一文をもう一度、頭の中で聞いた。「また来ますか、次回も」。聞いたのは読書会のことか、私のことか。


たぶん、読書会のことだった。


90%くらいの確率で。


でも残りの10%が、吉祥寺駅の改札を通るまでずっと、胸の少し上あたりにあった。温度があった。


帰りの中央線の中で、イシグロの言葉を思い出した。クララが何かを信じるシーン。信頼することを選ぶシーン。読んでいるとき怖いと彼は言っていた。信頼しすぎることが、と。


今ならわかる気がする。


怖いのは裏切られることじゃなくて、信じることを選んだ自分がそこにいることだ。クララのことが少しだけわかった気がした夜だった、とか言えたらきれいなのだけど。正直に言えば、次の読書会の課題本がなんなのかを、帰りの電車でもう検索していた。


あの「また来ますか」の主語を、私はまだ決めていない。


決めないでいることが、今のところちょうどいい。



最初の5分でつくられたのに、2時間で全部壊れた。

よくある質問

読書会はどこで開催されていたのですか?
吉祥寺の駅から徒歩7分、雑居ビルの3階にある小さなカフェです。壁一面に本棚があり、席と席の間隔が狭くて、来た人みんなが少しだけ距離を縮めざるを得ない場所だと書かれています。
読書会の課題本は何だったのですか?
カズオ・イシグロの『クララとお日さま』です。彼はすでに付箋を何枚も貼った状態で持ってきていて、読み込んできた人だとすぐにわかったと書かれています。
「また来ますか?」という言葉の何がわからなかったのですか?
「また来ますか?」の主語が、帰り道ずっとわからなかったとタイトルにあります。読書会にまた来るのかという意味なのか、それとも別の意味があるのか——吉祥寺の夜風の中でその一言の真意が読み解けなかったということです。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

#読書会#リアル出会い#本がつなぐ恋#偶然の出会い

この記事が刺さったら、シェアしてください

あなたへのおすすめ

読書会」に興味があるあなたへ

「またどこかで」と言った夜に後悔した。3日後にLINEが来た話
恋愛体験談

「またどこかで」と言った夜に後悔した。3日後にLINEが来た話

飲み会の帰り、友達の彼氏の友人と偶然同じ方向だった。渋谷から乗った電車の中で30分、なぜかずっと話し続けた。「またどこかで」と言って別れた人から3日後にLINEが来た。アプリでも職場でもない出会いの、その続きの話。

女性26歳
6
半径3kmに知り合いが4人いた夜。後悔しないで続けた福岡の話
恋愛体験談

半径3kmに知り合いが4人いた夜。後悔しないで続けた福岡の話

Pairsを開いたら前の会社の上司が出てきた——福岡、人口160万人のはずなのに。指先が冷たくなった。地方アプリの「バレるかも」という恐怖と、その先にあった「同じ地図を持つ人」との出会いの話。

女性Pairs|28歳
4
閉まりかけた電車のドアから入ってきた夜。後悔しなかった話
恋愛体験談

閉まりかけた電車のドアから入ってきた夜。後悔しなかった話

Pairsで2週間やりとりしていた相手が、閉まりかけた井の頭線のドアから滑り込んで私の隣に立った。世界が狭すぎて、笑えなかった。でも笑った。マッチングアプリとリアルが交差した、偶然すぎる出来事の話。

女性Pairs|26
4
7ヶ月隣にいた夜、言えなかった。後悔しなかった話
恋愛体験談

7ヶ月隣にいた夜、言えなかった。後悔しなかった話

毎週日曜、代官山のヨガスタジオで7ヶ月間、隣にマットを敷いていた。話しかけられなかったのは怖かったからじゃない。仲良くなれないと決めつけていたからだった。「ブロック貸してもらえますか」と言えなかった私へ。

女性28歳
6
通い続けたカフェで話しかけられた夜、後悔しなかった話
恋愛体験談

通い続けたカフェで話しかけられた夜、後悔しなかった話

高円寺の古いカフェ、窓際の席、酸味の強いコーヒー。毎週土曜の午後2時、体が勝手に動いてその席に向かっていた。その隣に、いつも同じ人がいた。習慣が作った縁——常連同士から話が始まった偶然の出会いの体験談。

女性24歳
6
本屋で偶然会って、そのまま3時間歩いた話
恋愛体験談

本屋で偶然会って、そのまま3時間歩いた話

アプリで知り合って1週間、「偶然」を装って代官山の蔦屋書店へ行った。本棚の前で並んで、川沿いを歩いて3時間。嘘をついていたのに、最後に見抜かれた。マッチングアプリ体験談——偶然の出会いを演じた夜の話。

女性29歳
6

恋愛体験談」はまだ 298 本あります

次の記事

「Pairsで出会いました」と聞いた夜。後悔しながらプロフィールを書き直した