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恋愛体験談

「また来ますか?」の主語が、帰り道ずっとわからなかった

読書会で隣に座った人が、2時間で別の人になっていた。静かそうだと思っていた。でも、最後に投げかけられたその一言の意味が、吉祥寺の夜風の中でまだわからない。

·橘みあ·6分で読める

吉祥寺の駅から徒歩7分、雑居ビルの3階にある小さなカフェだった。


BOOK AND BEDほど洒落てもなく、チェーンのコーヒーショップほど無機質でもない。本棚が壁一面にあって、席と席の間隔が少し狭くて、来た人みんなが少しだけ距離を縮めざるを得ない、そういう場所。月に一度の読書会は、告知を見たときから「まあ、行ってみるか」くらいの気持ちだった。友達に誘われたわけでも、誰かに会いたかったわけでも、たぶんなかった。


参加者は8人。


彼は、端の席に座っていた。今月の課題本——カズオ・イシグロの『クララとお日さま』——を、すでに膝の上に置いていた。付箋が何枚も貼られていた。読み込んできた人だとわかった。でも、それ以外の印象は、正直、薄かった。静かそうだな、と思った。おとなしく意見を聞くタイプだろうな、と思った。ほとんど自動的に、そう分類した。


自己紹介が一周して、ファシリテーターが口火を切った。


「クララの視点で書かれることで、何が変わると思いましたか」


しばらく、沈黙が漂った。私は付箋を見ながら、さっきまとめてきた感想を頭の中で並べ直していた。そのとき、


「クララって、信頼しすぎるじゃないですか」


彼が言った。


声が、思ったより低かった。それより、言葉の切り口が——。


「人間のことを。だから読んでいて怖い。愛情の描写なのに、ずっと怖い」


私の胸の奥で、何かがひっかかった。それは正確に、私が言語化できていなかった部分だった。読んでいて感じていた、あの居心地の悪さ。信頼されているのに裏切るような感覚。それを彼は、こともなげに言葉にしていた。


会話が動き出した。


彼は、多弁ではなかった。でも、発言するたびに場の空気が少し変わった。誰かの意見に「それ、こういうことですよね」と言い換えるのがうまくて、その言い換えのたびに元の発言者が「そう、そう言いたかった」という顔をした。私もそのうちの一人になっていた。


1時間が経つころ、テーマがAIと感情の話に転がった。


「でも、クララって感情があると思いますか?」誰かが聞いた。


「ある、と思いたいんでしょうね、イシグロは」


また彼が言った。


「人間が」と私は口を挟んでいた。「信じたいだけなのかもしれない、クララに感情があるって」


彼がこちらを見た。少し間があって、


「それ、すごく意地悪な読み方ですね」


と言った。笑いながら。意地悪、と言われたのに、なぜか口角が上がった。正確に受け取ってもらえたときの感覚だと、あとで気づいた。


そこから、なんとなく発言のたびにお互いを意識するようになっていた。正確に言うと、私が意識し始めた。彼がどう思っていたかは、まだわからない。


笑いのツボが近かった。


ある参加者が「ジョジーはもっと感謝すべきだった」と言ったとき、私が思わず「ジョジーに何かを期待するのは……」と言いかけてやめたら、彼が「難しいですよね、ジョジーには」と引き取った。まったく同じテンションで。他の参加者は少し困惑した顔をしていたが、彼と私はほぼ同時に、静かに笑った。


そういう瞬間が、2時間の中に3回くらいあった。


会が終わった。本が片付けられて、コーヒーカップが下げられて、人が少しずつ席を立ち始めた。私もコートを取って、バッグに付箋だらけのメモ帳を押し込んだ。


「面白かったですね、今日」


気づいたら彼が横に立っていた。


「そうですね」と私は言った。「クララの話、また誰かとしたいくらい」


「また」と彼は繰り返した。それから少し考えるような間があって、「また来ますか、次回も」


その一文が、空気の中に置かれた。


私は一瞬、止まった。


読書会に、来ますか。それとも——。


主語がなかった。「読書会に」という言葉がなかった。ただ、「また来ますか、次回も」。会話の流れで言えば、読書会の話をしていたのだから、当然そういう意味のはずだった。でも、「また」の前に一瞬あった間が、脳裏から離れなかった。


「たぶん、来ます」


と私は言った。


「たぶん」と彼は笑った。「正直ですね」


それだけだった。


階段を下りて、吉祥寺の夜の空気に出た。10月の終わりで、風が少し冷たかった。駅に向かいながら、私はさっきの一文をもう一度、頭の中で聞いた。「また来ますか、次回も」。聞いたのは読書会のことか、私のことか。


たぶん、読書会のことだった。


90%くらいの確率で。


でも残りの10%が、吉祥寺駅の改札を通るまでずっと、胸の少し上あたりにあった。温度があった。


帰りの中央線の中で、イシグロの言葉を思い出した。クララが何かを信じるシーン。信頼することを選ぶシーン。読んでいるとき怖いと彼は言っていた。信頼しすぎることが、と。


今ならわかる気がする。


怖いのは裏切られることじゃなくて、信じることを選んだ自分がそこにいることだ。クララのことが少しだけわかった気がした夜だった、とか言えたらきれいなのだけど。正直に言えば、次の読書会の課題本がなんなのかを、帰りの電車でもう検索していた。


あの「また来ますか」の主語を、私はまだ決めていない。


決めないでいることが、今のところちょうどいい。



印象というのは、最初の5分でつくられて、次の2時間で全部壊れる。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

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