通い続けたカフェの常連さんと、ある日話が始まった
高円寺の古いカフェ、窓際の席、酸味の強いコーヒー。毎週土曜日だけが、完全に自分のものだった時間。その隣に、いつも同じ人がいた。
土曜日の午後2時になると、体が勝手に動いていた。
高円寺の駅を出て、商店街を抜けて、古い雑居ビルの細い階段を上る。2階のドアを押すと、エスプレッソマシンの低い音と、誰かのキーボードの音と、窓から差し込む白っぽい午後の光。席を探す必要すらなかった。窓際の、道路が見える席。そこが、週に一度だけ許された私の場所だった。
コーヒーは酸味が強い。最初に飲んだとき、正直、好みじゃないと思った。でも気づけばほかの店で飲めなくなっていて、そういうものが人生には思ったよりたくさんある。
彼女のことも、最初はただの「景色」だった。
私より少し早く来て、少し遅く帰る人。いつもアメリカーノを頼んで、分厚い本を開いている。仕事関係の本のときもあれば、背表紙に漢字が並ぶ小説のときもある。読んでいるものはバラバラなのに、本を持つ手の感じがいつも同じで、その静けさだけが毎週変わらなかった。
名前も知らない。話したことも、目が合ったことも、たぶんなかった。それでも3ヶ月くらい、私たちは毎週同じ席で、互いを知らないまま隣り合っていた。
きっかけは、間抜けなものだった。
彼女が読んでいた本のタイトルが、どうしても気になったのだ。白い表紙で、文字が見えそうで見えない。体をほんの少し傾けて、気づかれないように覗こうとしていたら——。
「気になりますか」
静かな声だった。驚いて、本を取り落としそうになった。
「あ、すみません」
「よかったら、読みますか」
差し出してきた文庫本。白い表紙に、津村記久子、と印刷されていた。「今読み終わりそうなので」と彼女は言った。表情はやわらかかったけど、愛想笑いじゃなかった。ただ、本を差し出していた。
「いいんですか」
「どうせここにいる間に読み終えますから。帰るとき持っていってください」
それだけ言って、また自分の本に目を落とした。終わり、だった。会話の終わり方が、気持ちよかった。
その日の残り2時間、私たちはまた話さなかった。でも何かが変わっていた。同じ沈黙が、違う重さになっていた。1時間ほどして、彼女がページをめくる音が止まった。本を閉じて、「終わりました」と言いながら文庫本を渡してくる。「感想、聞かせてください」。
「また来ますか」と私は聞いた。
「毎週来てます」と笑われた。
それが初めて見た、彼女の笑い方だった。
翌週、コートのポケットに文庫本を入れて行った。感想を話した。「面白かったです、特に主人公が職場のことを延々と考えてるシーンが」と言ったら、彼女は「そこ、好きですよね」と言った。疑問形じゃなかった。確信のある言い方。
「わかりますか」
「なんとなく」
なんとなく、でわかるものがある。その人がどこで立ち止まるか。どこで息を吸うか。3ヶ月、話もせずに隣にいたら、そういうことが少しだけ見える。——見えているのは私だけじゃなかった、ということを、そのとき初めて知った。胸のあたりが、じわっと温かくなった。でも同時に、ちょっと怖かった。知られていた、という感覚。
それから毎週、互いに本を持ち寄って感想を話すようになった。
彼女は読むのが速い。毎週別の本を持ってくる。私は遅くて、同じ本を2週にわたって読んでいることが何度もあった。「まだ読んでる」と正直に言ったら、「焦らなくていいですよ」と返ってきた。それだけの言葉なのに、肩から何かが降りた気がした。
12月に入って、彼女がグレーのコートで現れた。少し大きめで、袖がほんの少し余っている。窓際の白い光の中でそれを着ていると、なんだか絵みたいで、私はコーヒーカップを両手で持ったまま少し固まった。何も言わなかったけど、何か言いたかった。でも何を言えばよかったのか、今でもわからない。
3ヶ月経ったある土曜日、彼女が文庫本を閉じてから、「カフェ以外で会いませんか」と言った。
「どこで」
「本屋は、どうですか」
吉祥寺のパルコブックセンターで待ち合わせた。彼女は私より5分早く来ていた。カフェと同じだった。棚と棚の間を歩きながら、今まで以上にたくさん話した。話すことが、こんなにあったのか、と思った。声が、少し大きくなっていた。気づいたら2時間経っていた。
近くのビストロで夕食にした。アラカルトで4品頼んで、ワインを1本空けた。グラスを傾けながら、「カフェで最初に話しかけたとき、緊張しましたか」と聞いたら、「しました」と彼女は即答した。「全然そう見えなかった」と言ったら、「見えないようにしていたので」と笑った。
そういう人だった。
終電近くになって、駅の改札の前で「また来週」と言って別れた。また来週。カフェでの別れ方と同じ言葉だったけど、違う温度を持っていた。
翌週、またカフェの窓際の席で隣り合った。エスプレッソマシンの音。キーボードの音。午後の白い光。何も変わっていなかった。でも何かが、確実に動いていた。
恋愛って、もっとわかりやすいものだと思っていた。マッチングアプリで、プロフィールで、条件を見て、右か左か判断して。でもこれは違った。ただ同じ場所に通い続けて、同じ沈黙を重ねて、同じ本を読んで、気づいたら「また来週」が一番楽しみな言葉になっていた。
縁、という言葉が昔は少し大げさに感じていた。でもあの窓際の席で、酸味の強いコーヒーを飲みながら思う。
好きな場所に、正直にいること。それだけで、会えることがある。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。