本屋で偶然会って、そのまま3時間歩いた話
代官山の蔦屋書店で、偶然を装って会いに行った。本棚の前で並んで、川沿いを歩いて、気づいたら3時間。嘘をついていたのに、最後に見抜かれた。
本棚の角を曲がったら、いた。
11月の土曜日、午後3時。代官山の蔦屋書店は、週末にしては静かだった。外はイチョウの葉が歩道に積もって、風が吹くたびに黄色いものがひらひらと窓の外を横切っていく。店内にはコーヒーの匂いが漂っていて、BGMはたぶんジャズだったと思う。たぶん、というのは、音楽より先に彼を見つけてしまったから。
アプリで知り合って、まだ1週間しか経っていなかった。会ったことは一度もない。写真で見ていた顔が、文芸コーナーの棚の前に立っていた。
「こんにちは」
向こうが驚いた顔をした。私はたぶん、うまく驚けていなかった。
「え、なんで」
「偶然です」
それは嘘だった。
彼が「代官山の蔦屋が好きで、土曜によく行く」とLINEで言っていたのを、ちゃんと覚えていた。今日来るかもしれないと思って、来ていた。偶然じゃなかった。でも、それを言える雰囲気は、まだどこにもなかった。
「今日ここに来ると言ってませんでしたっけ」と私が言ったら、彼は少し笑って「言いましたね、覚えてたんですか」と聞いてきた。
「なんとなく」と答えた。
なんとなく。その言葉をしゃべりながら、喉のあたりがじわっとした。嘘の温度みたいなものが、口の中に残った。
「何を探してたんですか」
「特に決めてないけど、なんか面白そうなものを」
「一緒に探しませんか」
「いいですよ」
簡単に、そうなった。
文芸コーナーで、「これ知ってますか」「読みました、面白かったです」「どんな話ですか」という会話が続いた。向かい合って話すより、並んで棚を見ている方が話しやすかった。視線が交わらないから。顔を見なくていいから。それなのに、彼女が本を手に取るたびに、表紙を確認するふりをして横顔を盗み見ていた。
眼鏡をかけていて、少し短い前髪。本のタイトルを読むとき、口が少しだけ動いた。声にしない、くちびるだけの言葉。それがなぜか、ずっと目に残った。
「あ、これ好きです」
そう言って手渡してきたのは、吉田篤弘の『つむじ風食堂の夜』だった。
「読んだことないです」
「じゃあ絶対読んでください、静かな話なんですけど、なんか……好きで」
本を薦めるとき、少し早口になった。「なんか」という言葉が滑り込んでくるのが、なんだか、よかった。うまく言語化できないものを、「なんか」で渡してくる感じ。受け取り方は、こっちに委ねられていた。
結局2冊ずつ買った。薦めてもらった1冊と、もう1冊は自分で選んだ。レジを出て、紙袋を持ったまま少し立ち止まった。「どこか行きますか」と私が聞いたら、「歩きながら話しましょうか」と返ってきた。
代官山から、中目黒へ。
川沿いの道を並んで歩いた。11月の日差しはもう薄くて、それでも午後3時台の光は川面に白く散らばっていた。目黒川の水は低くて、澄んでいた。息を吸うと、枯れ葉と川の匂いが混ざって入ってくる。冬の入り口の匂い。後からそれを思い出すたびに、あの日のことがついてくる。
「カフェで読む派ですか、家で読む派ですか」
「カフェです。人がいる方が集中できて」
「わかります、私も」
そういう、どうでもいい話をずっとしていた。好きな作家の話、本をどこで読むかという話、どういう気分のときに本屋に来るかという話。彼が好きだと言った作家を、私は読んだことがなかった。「今度貸しますよ」と言われて、「じゃあ次会うときに」と答えた。
次。その言葉を自分で出しながら、胸のどこかが少し動いた。会いたいのか、どうなのか。好きかもしれないし、まだよくわからないかもしれない。そういう、判定できないものを抱えたまま、川沿いを歩いていた。
彼女がコートの前を合わせた。そのとき初めて、寒いんだと気づいた。風が出てきていた。日が傾いて、川面の光が消えかけていた。
中目黒の駅の近くで、座れる場所を見つけた。自動販売機で缶コーヒーを買って、ベンチに並んで座った。話しながら、何度か笑った。笑い声を出す前に、彼女がちょっとだけ目を細める。その一瞬が先にくることを、このとき覚えた。
気づいたら、3時間経っていた。
「そろそろ」と言ったとき、空はもう暗くなりかけていた。駅の方に少し歩いて、別れる前に彼が言った。
「今日、偶然じゃなかったでしょ」
喉が、乾いた。
心臓が一回だけ、変な打ち方をした。顔に出ていたのか、それとも最初から見透かされていたのか。どちらかわからないまま、「どうでしょう」と笑って誤魔化した。
「次は偶然じゃなく会いましょう」
それだけ言って、彼は改札の方へ歩いていった。振り返らなかった。
私はしばらく、そこに立っていた。缶コーヒーはもう空で、手の中で少し温かかった。
次は約束して会った。その次も。4回目に、「好きです」と言った。
今でも、蔦屋書店の前を通るたびに思い出す。あの日の私が、「偶然です」と言ったこと。嘘をついたまま棚の前に並んで、横顔を盗み見していたこと。ばれていたこと。それでもちゃんと、次に続いたこと。
『つむじ風食堂の夜』は、あの夜に読み終えた。静かな話だった。彼女が言った通り、「なんか」好きな感じの、静かな話。
偶然を装った夜に読んだ本のことを、たぶんずっと覚えている。
ばれている嘘より、見抜いてくれる人の方が怖くて、そっちに惹かれていく。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。