恋のアーカイブ
恋愛体験談

7ヶ月、隣にいた人に「あの、ブロック貸してもらえますか」と言えなかった私へ

毎週同じ時間、同じ場所にマットを敷いて、ずっと隣にいた。話しかけられなかったのは怖かったからじゃなくて、仲良くなれないと決めつけていたからだった。

·橘みあ·6分で読める

代官山のヨガスタジオに通い始めたのは、去年の三月だった。


友達に勧められて、というより半ば引きずられて。「日曜の十一時、ちょうどいい時間じゃん」と言われて、断る理由も見つからなくて。そういうふうに始まったことが、案外長く続く。


木の床。窓から差し込む光が、季節によって角度を変えながら、毎週同じところに落ちる。アロマディフューザーから漂うユーカリの匂い。インストラクターの声は低くて、ゆっくりしていて、ここにいていいよと言われているみたいだった。


そのスタジオには、マットを置く場所に暗黙のルールがあった。正確には、誰も決めていないのに、いつの間にかみんなが同じ場所を選んでいる、あの感じ。私は入り口から見て右の窓際、後ろから二列目。そして彼女は、その隣。


最初から気になっていた。


毎回、私より少し早く来て、静かにストレッチをしている。ネイビーのヨガウェア。lululemonのバッグ。髪は毎週、決まって首の後ろで低く結んでいた。ポーズが綺麗だった。特にトリコナーサナ、三角のポーズのとき、指先まで迷いがなくて、思わず盗み見てしまう。


でも、話しかけたことは一度もなかった。


七ヶ月間、ひとことも。


理由を聞かれたら、うまく答えられない。怖かったわけじゃない、たぶん。ただ「どうせ仲良くなれない」という確信みたいなものが、最初からあった。自分でドアを閉めておいて、でも窓からずっと覗いているような、そういう状態。


クラスが終わると、みんなそれぞれのリズムで片付けをして、散っていく。私もさっさと帰る側だった。スタジオの外に出ると、代官山の坂道を下って、ヒルサイドテラスのカフェの前を通り過ぎて、電車に乗る。その十五分くらいの道が、ひとりで頭の中を整理する時間になっていた。


その日は、十月の終わりだった。


クラスが長引いて、片付けのタイミングがいつもとずれた。ブロックを棚に戻そうとしたら、同じタイミングで彼女もブロックを持っていて、棚の前でちょうど鉢合わせた。


「あ、」


私が先に声を出した。自分でも驚いた。


「一緒になっちゃった」と彼女が笑った。声、初めて聞いた。思ってたより少しだけ低くて、柔らかかった。


「いつも隣なのに、話したことなかったですよね」


気づいたら、そう言っていた。バカ正直に。頬の内側が、じわっとした。


「そう!なんか、ヨガって話しかけにくい雰囲気ありますよね」と彼女が言って、「私もずっと気になってたんですけど」と続けた。


——え、


その「え」は、声に出なかった。胸の少し上あたりが、一回だけ強く動いた気がした。


私が気になっていたのと同じように、向こうも気にしていた。それだけのことなのに、七ヶ月分の時間が、急にばかみたいに思えた。でも、ばかみたいだと気づけたのも、その瞬間だったから、まあいいか、という気持ちもあって、頭の中がわりとぐるぐるしていた。


「帰り、同じ方向ですか」


聞いたのは私だった。


代官山の坂を、二人で下りた。


ヒルサイドテラスの前で「せっかくだし」と彼女が言って、角のカフェに入った。窓際の席。外を自転車が通り過ぎていく。彼女はソイラテを頼んで、私はほうじ茶のやつを頼んで、それだけで「あ、なんか合いそう」と思った。根拠はない。でもそういう感覚は、たいてい当たる。


話すと、止まらなかった。


仕事の話、ヨガを始めたきっかけ、苦手なポーズ、最近ハマっているSpotifyのプレイリスト。彼女はiri の曲が好きで、私もそのアルバム持ってた、という話になって、なぜか二人で少しだけ黙った。偶然が重なると、どう反応していいかわからなくなる。


その日、二時間いた。


次の週も、クラスの後にまた「どうする?」と目が合って、また坂を下りた。今度は彼女が「ここ気になってたんだよね」と言って、代官山駅の近くの小さなクレープ屋さんに連れて行ってくれた。黒板に手書きのメニュー。並んで待ちながら、なんでもない話をした。なんでもない話が、全然なんでもなかった。


帰りの東横線の中で、スマホを見るふりをしながら、ずっとそわそわしていた。これは何なんだろうと思った。友達になりたいのか、それとも、もっと別の何かを求めているのか、自分でもまだわかっていない。


恋愛かどうかも、わからない。


ただ、誰かのことをこんなふうに「知りたい」と思ったのが久しぶりで、その感覚の重さに少し戸惑っている。


今になって思うのは、「どうせ仲良くなれない」は、相手への評価じゃなかった、ということ。傷つく前に自分で終わらせようとする、あのくせ。七ヶ月間、隣にいたのに距離を測ることしかしていなかった。


ブロックを棚に返しに行っただけで、変わった。


たったそれだけで。


諦めるのに理由はいらないけど、始めるのも、たいして理由はいらなかった。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

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