年収欄で手が止まった夜。自分を数字で説明するしんどさの正体
withの登録画面で年収欄を見て、指が止まった。400万円台。その数字を選んだ瞬間、自分という人間が数字に要約された気がした。年収を正直に書くかどうかより、もっと手前にある「自分を商品みたいに入力するしんどさ」の話。
withの登録画面を開いたのは、金曜日の23時だった。布団の中で、スマホの画面を指でなぞりながら、項目をひとつずつ埋めていった。
身長。175cm。まあこれはいい。
職種。Webディレクター。これもいい。
趣味。映画鑑賞。ちょっと味気ないけど、とりあえず。
年収。
指が止まった。
プルダウンメニューに並ぶ数字のレンジ。「〜200万」「200〜400万」「400〜600万」「600〜800万」。28歳、都内の中小企業勤務。手取りで月24万くらい。額面だと400万円台の前半。「400〜600万」を選べば嘘にはならないけど、上の方を想像されたら困る。「200〜400万」は……正直、それを選ぶ自分を想像したら、胸の奥がずきっとした。
結局「400〜600万」を選んだ。嘘ではない。でも誠実でもない、と思いながら。
数字に変換される自分
年収欄で止まったのは、金額の問題じゃなかった。
身長、体重、年齢、年収、学歴。マッチングアプリの登録画面は、自分という人間を数値と選択肢に分解していく作業だ。趣味の欄に「映画鑑賞」と入力したとき、ふと思った。俺の映画好きって「映画鑑賞」の4文字で伝わるのか。ケン・ローチの映画を観て翌日ずっと引きずった夜も、是枝裕和の新作を公開初日に観に行った朝も、全部「映画鑑賞」。
年収もそうだった。400万という数字の中身は、毎朝7時半に起きて東西線の満員電車に揺られて、23時まで働いて、たまに徹夜もして、クライアントに怒られながらも数字を少しずつ積み上げた結果だ。その全部が「400〜600万」のプルダウンに収まる。
自分を棚卸しにかけられている感覚、と言えばいいのか。メルカリに自分を出品しているような、変な気分だった。状態:やや傷あり。
自己紹介文が一番つらかった
年収欄は5秒で終わった。選んで、タップするだけだから。
本当にしんどかったのは自己紹介文だった。
「Webディレクターをしています。休日は映画をよく見ます。よろしくお願いします」
最初に書いた文章がこれ。書いた直後に読み返して、虚しくなった。なんだこれ。採用面接のエントリーシートの方がまだ血が通っている。
でも、じゃあ何を書けばいいのか。「28歳で年収400万で、特に取り柄はないけど、映画のことなら2時間は語れます」? 正直すぎて引かれる気がした。「休日は代官山のカフェで読書するのが好きです」? いや、実際は家でNetflix観てることの方が多い。
自分を「良く見せよう」とすると嘘になる。「正直に書こう」とすると地味になる。その間で、指が何度も止まった。
結局、3日間放置した。アプリを開くたびに未完成のプロフィールが表示されて、そのたびに閉じた。
友人の一言
4日目の夜、飯田橋の居酒屋で友達に相談した。テーブルに枝豆の殻が散らばった頃、スマホを渡して「プロフィール見てくれない?」と言った。
友達は5秒で画面をスクロールして、ビールのジョッキを置いた。
「自己紹介文、ひどいな」
「そうなんだよ」
「年収の話してなかった?」
「年収400万で——」
「いや、年収はいいよ。それより、この自己紹介文で何がわかる? Webディレクターなのと映画が好きなのと、よろしくお願いしますってことだけじゃん」
返す言葉がなかった。
「年収400万を気にしてる暇があるなら、この3行をなんとかした方がいい。年収は検索フィルターで弾かれるかもしれないけど、自己紹介文は開いた人全員が読むんだよ」
焼き鳥を噛みながら言われて、喉を通りにくかった。鶏皮がじゃなくて、言葉が。
書き直した夜
その夜、帰宅してすぐに自己紹介文を書き直した。
職種の説明を変えた。「Webディレクター」じゃなくて、「ECサイトの使い勝手を良くする仕事をしています。カートに入れたのに買わない人の心理を毎日考えてます」。映画も変えた。「ケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』が刺さりすぎて翌日引きずりました。静かなのに怒ってる映画が好きです。是枝監督と山田洋次監督、どっちが好きか話せる人と出会いたい」。最後に「言葉を扱う仕事をしてるくせに、自己紹介文が一番苦手です」と加えた。
年収はそのまま。「400〜600万」のまま。
写真も変えなかった。
1週間後。マッチング数が前の週の2倍になった。届くメッセージが変わった。「ケン・ローチ、私も好きです」「是枝派です、話しましょう」「ECサイトの仕事って面白そう」。年収について聞いてくる人は、ひとりもいなかった。
年収を気にしてたのは自分だけだった
マッチング数が増えた後も、年収欄を見るたびに少し胸がざわついた。でも実際に会って話した人たちに、年収のことを聞かれたのは3ヶ月で1回だけだった。それも、付き合い始めてからの話で、アプリの段階では誰も触れなかった。
中目黒のカフェで会った女性(29歳、出版社勤務)と是枝監督の話で盛り上がったとき、「プロフィールの最後の一文で、この人に会いたいと思った」と言われた。「自己紹介が一番苦手」の部分。年収じゃなかった。
年収を正直に書くべきか。その問いに対する答えは「正直に書け、でもそこに悩む時間を自己紹介文に使え」だった。年収は検索フィルターを通り抜けるかどうかの話で、通り抜けた先で見られるのは別のものだ。
まだ少し、ざわつく
正直に言うと、年収欄を見るたびに今でもほんの少し、腹の底が冷たくなる。数字で並べ替えられるあの画面で、自分が「下の方」に分類されている感覚は、慣れない。
自分を数字で説明するしんどさの正体は、たぶん「自分はこの程度か」と認める瞬間だ。年齢も、身長も、年収も、全部ひっくるめて「お前はこういうスペックです」と突きつけられる。自分でわかっていても、画面に表示されると別の重さがある。
でも、だから書き直したのだ。自己紹介文を。数字じゃない部分で、自分がどういう人間なのかを。それが読まれるかどうかはわからない。フィルターで弾かれて、画面にすら表示されないかもしれない。
それでも、400万円台の数字の横に、ケン・ローチの話を書いた。自分がどんな映画に心を動かされる人間なのか、それだけは数字に変換されたくなかった。
今の彼女には、年収を聞かれていない。聞かれたら正直に答えるつもりだけど、聞かれていない。それが嬉しいのか寂しいのかは、正直まだよくわからない。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。