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恋愛体験談

「ホン・サンスが好きです」と送ったら、3年後に二人で区役所の書類を出していた

マッチングアプリで出会った彼に、試しに送った一言。返ってきた返信で、私の人生が変わった。

·橘みあ·6分で読める

3月の区役所は、思ったより混んでいた。


整理券を取って、プラスチックの椅子に並んで座る。番号は47番。窓口には今、32番が呼ばれている。彼——今日から戸籍上も「夫」になる人——は、書類の束を膝の上に置いたまま、スマホを見ていた。私は天井の蛍光灯を見上げながら、3年前のことを考えていた。


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Omiai を始めたのは、29歳の秋だった。


周りが次々と結婚していくのを横目に、焦っているわけでもないけど平然としてもいられない、そういう宙ぶらりんな気持ちで登録した。プロフィール写真は友人の結婚式で撮ってもらった一枚。「映画が好きです」と書いた欄に、「邦画より洋画、でも最近はホン・サンスにはまっています」と付け足したのは、半ばテストのつもりだった。どうせ誰も知らないだろう。知っていたら、その人はたぶん話が合う。


彼からメッセージが来たのは、登録から10日後だった。


「ホン・サンスが好きな人、初めて会いました」


画面を見た瞬間、胃の底がふわっと浮いた。それはときめきというより、「あ、いた」という感じに近かった。


プロフィールを見ると、31歳、広告代理店勤務、趣味に「映画、散歩、古本屋」と書いてある。写真は三枚。一枚目はカフェらしい場所で本を読んでいるもの、二枚目は友人らしき人と笑っているもの、三枚目はどこかの海外の街角——石畳と古い建物。パリかな、と思ったらのちに「台湾の九份です」と教えてくれた。


「どの作品が好きですか」と返したら、即返信が来た。


「『夜の浜辺でひとり』と『自由が丘で』です。でも『3人のアンヌ』も捨てがたい」


私は思わず「全部好きです」と打ってから、少し考えて「特に『自由が丘で』は、あの終わり方がずるいと思って何度も観ました」と付け足した。


彼は「ずるいって言葉、ぴったりですよね」と返してきた。


その日だけで、30往復くらいしたと思う。


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初めて会ったのは、登録から3週間後。恵比寿のカフェを指定したのは私で、「映画の話ができる場所がいいと思って」という理由をそのまま伝えたら、「それは正しいと思います」と返ってきた。


待ち合わせは夕方6時。彼は2分前に来ていた。グレーのコートに、紺のマフラー。写真より背が高くて、歩き方が静かだった。「田中です」と言って頭を下げる。私も「安藤です」と返す。握手はしなかった。


オーダーしたコーヒーが来るまでの間、不思議なくらい沈黙が苦にならなかった。話題がないのではなく、急がなくていいという感じ。彼が「ホン・サンスを知ったきっかけって何でしたか」と聞いてきて、私が「友人に勧められて、でも最初は地味だと思ってた」と答えると、彼は「わかります、最初の30分で半分の人が脱落するやつ」と笑った。


その笑い方が、好きだった。口角が左だけ少し上がる。


3時間半いて、気づいたら22時を過ぎていた。「もう閉まりますよ」と店員に言われて、初めてそんなに時間が経ったことを知った。


帰り道、恵比寿の駅前で別れ際に彼が言った。


「また観に行きませんか。ちょうど今、シアター・イメージフォーラムでホン・サンス特集やってるので」


喉の奥が少し熱くなった。「行きたいです」と言ったら、声が少しかすれた。


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付き合い始めたのは、3回目のデートのあとだった。


渋谷のユーロスペースで映画を観て、道玄坂のビストロで夕飯を食べて、帰り道の坂の途中で彼が「付き合ってほしいんですけど」と言った。敬語だった。私たちはその頃まだ、敬語が抜けていなかった。


「はい」と言ったら、彼が少し照れてうつむいた。


その後3年間は、ドラマチックなことは何もなかった。毎週末どちらかの家で映画を観て、月に一度くらい遠出して、誕生日にはSHIROのキャンドルをもらった。喧嘩もした。彼が連絡を後回しにする癖があって、私がそれをため込んで爆発させたことが2回あった。仲直りの方法は、決まって深夜のファミリーマートのコーヒーだった。


「なんで君はホットじゃなくてアイスなの」と彼は言う。


「冬でも暑いんですよ、私は」


「体温高いよな」


「そっちが低すぎるんです」


そういう会話を積み重ねて、3年が経った。


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入籍を決めたのは、どちらが先とも言えないタイミングだった。


昨年の秋、中目黒を歩きながら彼が「そろそろどうしますか」と言った。敬語はもうとっくに抜けていたのに、そのときだけ丁寧語になった。私は川の水面を見ながら「どうするって、何を」と聞き返した。「一緒に住むとか、籍入れるとか」。


答えるまでに5秒かかった。5秒で、3年分を振り返った。


「入れたい」と言ったら、彼が「よかった」とだけ言った。


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「47番の方」


窓口のアナウンスで現実に戻った。彼が立ち上がって「行こう」と言う。書類を手に持って、二人で窓口に向かう。担当の女性が「婚姻届けですね」と確認して、書類を一枚ずつ見ていく。


5分で終わった。


区役所を出ると、3月の日差しが予想より強くて、思わず目を細めた。彼が「昼ご飯、何にする」と言う。「ラーメンでも」と私が言う。「どこの」「目黒川沿いのやつ」「遠くない?」「歩けます」。


他愛ない話をしながら歩く。私の左手の薬指に、今朝から指輪がある。


「ホン・サンスが好きです」という一言から始まった話が、今日ここで一区切りついた。でもたぶんこれは区切りじゃなくて、続きの始まりだ。


映画のラストシーンみたいに、何も解決していないのに、なぜかすべて大丈夫な気がする。ホン・サンスっぽいな、と思った。きっと彼も同じことを考えている。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

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