海外赴任で知り合った人と、帰国後も続いた話
バンコクで「現地だけの友達」だと思っていた人が、東京の2月に連絡をくれた。場所が変わると、気持ちも変わる。それが本物になるまでの話。
バンコクの空気は、甘くて重い。
それが最初の印象だった。タラップを降りた瞬間、東京では嗅いだことのない熱帯の匂いが肺に入ってきて、「あ、ここは違う場所だ」と体が先に理解した。頭よりも体のほうが正直で、時差ボケより先にその匂いが私を混乱させた。
赴任最初の3ヶ月、街に馴染めなかった。BTSの路線図を見ても行き先がわからない。タイ語の文字は記号にしか見えない。アソーク駅の出口を間違えて、スコンビットの大通りを20分歩いたこともある。コンビニで水を買うだけでも、なんとなく安心した。夜、宿舎に戻るたびに思った。「ここで2年、か」。窓の外で、バイクのエンジン音がずっとしていた。
彼女と会ったのは、赴任して4ヶ月目のことだった。
現地の日本人コミュニティの集まりで、スコンビットのバーだった。20人くらいいて、みんなそれぞれの赴任事情を持ち寄って、ビールを片手に話していた。私は端のほうにいた。知り合いが少なかったし、まだ人の輪に入っていくのが苦手だった。そこに彼女が来た。
「海外、慣れましたか?」
「まだあまり」と答えたら、少し笑って「私も最初の半年は変な夢を見てました」と言った。変な夢。その言葉がおかしくて、私も笑ってしまった。異国で見る夢は、確かに変だ。
それから、友人として会うようになった。週末にジャトゥジャック市場をぐるぐると歩き回って、意味もなく雑貨を眺めた。ドン・ムアン空港から飛ぶ格安航空で、近くの島にも行った。チャーン島の夕方、浅瀬に足を入れながら「なんで私たちこんなとこにいるんですかね」と彼女が言って、「さあ」と返した。それだけで十分だった。同じ異国にいる日本人、という共通点が、妙な近さを作っていた。
でも、恋愛としては考えていなかった。
たぶん、お互いにそうだったと思う。赴任期間が決まっている人間同士には、どこか暗黙の了解がある。バンコクにいる間は近くて、帰国したら自然と疎遠になる。それがルールだと、誰も言わないのに全員が知っていた。軽い繋がり。非日常の中の、非日常の関係。
だから好きかどうか、考えないようにしていたのかもしれない。考えたら、何かが変わってしまう気がして。
私が先に帰国することになった。赴任2年目の終わり。
送別会の後、二人で少し歩いた。チャオプラヤ川沿い、夜の10時過ぎ。風が生温かくて、川の向こうにワット・アルンのライトが見えていた。何を話したか、あまり覚えていない。ただ、歩きながら「この感じ、もう終わるんだ」と胸のあたりがざわついた。ざわつく、という感覚。それが何なのか、名前をつけるのが怖かった。
「日本でも会えますか」
先に言ったのは私だった。聞いてから、ちょっと後悔した。社交辞令みたいに聞こえたかもしれない。でも彼女は「もちろん」と言った。「東京ですよね?」「そうです」「じゃあ会いましょう」。あっさりしていた。あっさりしすぎていて、帰りの飛行機でやっぱり社交辞令だったかな、と思った。
3ヶ月後、LINEが来た。
「もう帰国しました。今度会えますか」
画面を見て、少し動けなかった。本当に連絡が来るとは思っていなかった。思っていなかったくせに、来てから気づいた。ずっと待っていたことに。
中目黒のカフェで会った。目黒川沿いの、2月。桜はまだ遠くて、川は灰色だった。マフラーを巻いて向かいに座った彼女は、バンコクで会っていた人と同じなのに、どこか違って見えた。
スワンナプームの話をした。トゥクトゥクで迷子になった話。カオマンガイの屋台のこと。BNK48の曲がどこのモールでも流れていたこと。話しながら、バンコクが遠くなっていくのを感じた。
「なんか違いますね」
私が言ったら「何が?」と聞かれた。「バンコクで会うのと、東京で会うのが……なんか、違う感じがして」うまく言えなかった。言葉が途中で止まった。でも彼女は「私もそう思ってました」と言った。
「どっちがいいですか」
「東京の方が、なんか本物っぽい」
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「日常で会えることが、嬉しいです」
言ってから、少し間があった。川のほうを向いていた彼女が、こっちを見た。
「私も」
それだけだった。それだけで十分だった、と今なら思う。あの瞬間、何かが変わった。バンコクの話をしていた二人から、東京で続きを始める二人になった。
今、月に3〜4回会っている。付き合い始めてから8ヶ月。中目黒のカフェが、なんとなく定位置になった。
バンコクがなければ出会わなかった。でも東京に戻らなければ、始まらなかった。
場所が変わると、気持ちも変わる。いや、正確には——場所が変わって、はじめて本当の気持ちがわかることがある。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。