同じ会社の先輩をOmiaiで見つけた、あの月曜
通勤電車の中でOmiaiを開いたら、隣の部署の先輩が出てきた。右にスワイプして、マッチングしないでくれと祈って、それでも午後2時に通知が来た。あの月曜から、廊下の「お疲れさまです」の意味が変わった。
10月の月曜日、朝9時の東京メトロ東西線は、いつもどおり息ができないくらい混んでいた。
吊り革を片手で掴んで、もう片手にスマホ。画面の明るさを落として、こっそりOmiaiを開く。これがここ数ヶ月の朝の習慣だった。誰かに見られているかもしれないとわかっていても、やめられない。満員電車の中の小さな画面の中だけに、何か別の世界への入り口があるような気がして。
スワイプ、スワイプ、スワイプ。
止まった。
胸の奥で何かが、音もなく落ちる感覚があった。見覚えのある顔。いや、「見覚えのある」なんてものじゃない。毎週2〜3回、廊下ですれ違う人の顔だ。名前だって知っている。隣の部署の、田中さん。たまにエレベーターが一緒になって、「お疲れさまです」「お疲れさまです」と言い合って、それだけで終わる。それだけの関係の人の顔が、今、私の右手の親指の前にある。
左にスワイプしようとして、止まった。
なぜか読んだ。プロフィールを、最後まで読んだ。趣味:登山、読書、映画鑑賞。休日の過ごしし方:近所の公園を散歩、ときどき友達と鍋。「誠実な人が好きです」。
登山、か。知らなかった。
廊下で見るときは、いつもスーツを着ていて、少し猫背で、でも歩くのが早くて。休日に山に登る人だなんて、考えたこともなかった。そんな当たり前のことが、なんだか胸に引っかかった。人って、知らない顔を持っている。毎日すれ違っていても、全然知らないままでいられる。
右にスワイプした。
電車がゆっくりと大手町に滑り込む。扉が開いて、人の波に押し出される。改札を抜けて、地上に出たら、空は鉛色だった。今日は雨になるかもしれない。「どうかマッチングしないでくれ」と、灰色の空に向かって、声に出さないままで思った。
オフィスに着いて、パソコンを立ち上げて、メールを確認して、会議に出て、ランチを食べて、また会議に出て。
午後2時。
気がついたらOmiaiを開いていた。
通知が来ていた。
心臓が、跳ねた。文字どおり跳ねた感じがした。胸の中で何かがバウンドして、喉のあたりまで上がってくる。画面を閉じた。深呼吸した。もう一度開いて、また閉じた。
「どうする」
声に出すと、気持ちが現実になる気がして、心の中だけで繰り返した。どうする、どうする。同じ会社。廊下ですれ違う。「お疲れさまです」しか言ったことがない。それで十分だったはずなのに。十分だと思っていたのに。
退勤時間、エレベーターホールで先輩と目が合った。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです」
どちらも、普通の顔をしていた。たぶん。でも、私は「たぶん」しか言えない。自分の顔が今どういう表情をしているのか、全然わからなかったから。エレベーターの扉が閉まってから、息を吐いた。知らないうちに、ずっと息を止めていたらしかった。
その夜、渋谷の自室で、ユニクロのパジャマを着たまま、1時間スマホを見つめた。
Spotifyでtofubeatsの「水星 feat.オノマトペ大臣」をリピートしながら、何度もメッセージの文面を書いては消した。「はじめまして」——違う、知ってる。「突然ですが」——唐突すぎる。「同じ会社だと気づきました」——そんなの向こうだってわかってる。
結局、送ったのはこれだった。
「突然で驚かれたかもしれないのですが」
送信ボタンを押したあと、スマホを伏せてベッドに倒れた。天井のシミを数えながら、この先起こりうるあらゆる最悪の展開を頭の中で上映した。無視される。月曜に廊下ですれ違ったとき気まずくなる。なんとなく噂になる。私が変な人だと思われる。好きでもない人にスワイプしてしまったことを後悔する未来。
翌朝、起きたら返信が来ていた。
「驚きました。でも、悪くないと思っています」
読んで、もう一度読んで、三回目に読んだとき、口の端が勝手に上がった。「悪くない」。そのぶっきらぼうな言葉が、すごく、その人らしかった。会ったこともないのに「らしい」と思ってしまった。プロフィールの「誠実な人が好きです」という一行と、この「悪くない」という返信が、頭の中でつながった気がした。
それで十分だった。
その後2週間、アプリのメッセージでやりとりした。映画の話をした。先輩がよく行く吉祥寺のミニシアターの話を聞いて、私が好きな監督の話をした。テキストの向こうに、廊下を歩く猫背の姿が重なって、でも廊下の先輩とアプリの「田中さん」は、なぜかまだ別の人みたいな感覚があった。
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初めて会ったのは、会社の近くじゃない駅のカフェだった。どちらともなく、遠い場所を選んだ。
座ってすぐ、先輩が言った。
「アプリで見たとき、どうしようかと思った」
「私も」
それだけで笑ってしまった。ふたりで。お互いが同じことを考えていたと知って、なぜか少し、楽になった。
3ヶ月後、付き合い始めた。
会社には誰にも言っていない。これからも、たぶん、しばらくは言わない。それでいいと思っている。廊下で目が合って「お疲れさまです」と言うとき、向こうの目の奥に何かが見える気がする。見えない、かもしれない。でも、私には見える。
先週、先輩が登山に行ってきたと言っていた。奥多摩。写真を見せてもらったら、山頂で猫背のまま立っていて、でもすごく遠くを見ていた。
その顔を、廊下では見たことがなかった。
まだ知らない顔が、きっとたくさんある。それが、続けていく理由になっている。
秘密は、重さじゃなくて、ふたりだけの体温になることがある。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。