渋谷の雨の日、見知らぬ人から傘をもらって、1年後にその人と結婚した
6月の渋谷で傘をくれた男性が、1ヶ月後にマッチングアプリのおすすめ欄に現れた。「渋谷で傘をもらったことがあって、と言ったら信じますか」——送信ボタンを押した瞬間、何かが動き出した。
6月の第2週、17時半。
渋谷のハチ公口を出た瞬間、空が割れた。
比喩じゃなく、本当にそんな音がした。スクランブル交差点の信号が赤になって、いっせいに傘が開く。その光景を、庇の縁に立ち尽くしたまま見ていた。地面が鏡みたいに光っていた。跳ねる雨粒が白く見えた。自分だけが時間の外にいるみたいな、妙な感覚。
折りたたみ傘は会社のロッカーに入れたままだった。朝は降っていなかった。天気予報は見ていた。でも「まあいっか」で家を出た。そういう判断が後で自分に返ってくる。知ってたのに。
コンビニの傘を買えばいい。そう思って周りを見渡したけど、この雨の中を走れる距離にコンビニは見当たらなかった。スーツの人、制服の高校生、でかいキャリーバッグを引いた観光客。みんなそれぞれに行き先を持って、流れていく。私だけが流れていない。
5分、経ったか経ってないか。
「これ、使いますか」
声がした。振り返ったら、男性が透明の傘を差し出していた。
30代くらい。紺のスーツ。少し疲れた顔。でも目が穏やかだった。怖くなかった。それが不思議だった、後から考えると。
「え、でも」
「私は傘あるので」
バッグから折りたたみを取り出してみせた。会社の予備のやつで、返さなくていいですと言った。声に感情の押しつけがなかった。善意の押し売りじゃなくて、ただ傘が余っていて、困っている人がいたから渡している。それだけ。なんとなく、そういう人だとわかった。
お礼を言って、受け取った。
「ありがとうございます。本当に、なんかお礼を」
「いいですよ。行ってください」
笑って、交差点の方へ歩いていった。透明の傘を差して、人の流れに混ざって、すぐに見えなくなった。その背中を、もらった傘を差したまま見ていた。
電車の中で気づく。
連絡先、聞けばよかった。
心臓の少し上あたりが、じわっとした。後悔というより、惜しい、に近い感覚。でも名前も知らない人をどう探す。スマホを開いて、閉じた。渋谷駅のホームで、電車が来るのを待ちながら、傘の持ち手を握っていた。細くて、少し冷たかった。
家に帰って、クローゼットの隅に立てかけた。
捨てられなかった。
理由はうまく言えない。思い出だとか縁だとか、そういうきれいな言葉を当てはめるには、出来事が小さすぎる気がした。ただ、手放す気になれなかった。それだけ。
1ヶ月後、7月の終わり。
withを久しぶりに開いた。特に理由はなかった。深夜0時を過ぎていて、寝る前にぼんやりスクロールしていた。エアコンの音だけが部屋にあった。
おすすめ欄に表示されたプロフィールを見て、指が止まった。
1枚目の写真に、見覚えがあった。
渋谷駅で傘をくれた人だ。
間違いじゃなかった。顔も、スーツのシルエットも、でも一番は「穏やかな目」という記憶が一致した。プロフィールを読んだら、渋谷のオフィス勤務と書いてあった。そりゃそうだ、と思った。でも「そりゃそうだ」じゃない。世界は広い。東京だけで何百万人いる。それでもここに出てきた。
画面を閉じかけて、また開いた。
「いいね」を押した。
心臓が跳ねた。マッチングアプリで誰かに「いいね」してこういう感覚になるのは、初めてだった。変な感覚。期待とも違う。もっと静かで、もっと確かな何か。
マッチングした。
最初のメッセージをどう書くか、5分以上かかった。普通に書ける気がしなかった。「こんにちは」じゃない。「はじめまして」でもない。でもいきなり本当のことを書いたら、どう受け取られるか。信じてもらえるか。変な人だと思われるか。
考えて、もういいかと思った。
「渋谷で傘をもらったことがあって、と言ったら信じますか」
送信して、スマホを裏返して置いた。心臓がうるさかった。変な文面だと思った。でも他に書きようがなかった。
3分後。
「え、あのとき?!」
続けて「覚えてます、透明の傘でしたよね」と来た。
手が震えた、とは言わない。でも何かが、緩んだ。ずっと握りしめていた何かを、やっと놓した感じ。
そこから1時間、やりとりが続いた。
「傘、まだありますか」
「あります、捨てられなくて」
「捨てないでいてくれたんですか」
「なんとなく」
「なんとなく、ですか」
「……そうです」
言葉の行間に、お互いの照れが透けていた。きっとあちらも、スマホの前で少し笑っていた。そう思った。
2回目のデートのとき、あの傘を持っていった。代官山のカフェ、THINK OF THINGSで待ち合わせて、彼が来た瞬間、傘を差し出した。「返しに来ました」と言ったら、「返さなくていいって言いましたよ」と笑われた。
「わかってるんですけど」
少し間があった。
「あなたに渡したかったので」
彼の笑いが止まった。
その顔を見て、私は初めてこの人のことをちゃんと好きだと思った。傘をくれた人への感謝でも、再会の奇跡への興奮でもなく。この人が好き。ただそれだけ、でそれだけだった。
1年後に結婚した。
今も家に、あの透明の傘がある。クローゼットじゃなく、玄関の傘立てに。晴れた日でも、そこにある。傘としてはもう使わない。でも毎朝、出かけるとき目に入る。それでいい。
あの日の私は、雨に捕まって立ち往生していた。それだけのことだった。
でも今になって思う。立ち往生していなければ、始まらなかった。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。