恋のアーカイブ
恋愛体験談

料理教室で出会った人が、料理より上手なものがあった

中目黒の小さな料理教室で、みじん切りすらできない同士が隣になった。失敗作のパスタを「おいしくないですね」と同時に言って、笑った。料理より先に、作ってあげたい人ができた話。

·橘みあ·6分で読める

包丁を握った瞬間、手が震えた。


中目黒の駅から歩いて7分、古いマンションの4階。エレベーターを降りると、玉ねぎとバターが混ざったような匂いが廊下まで漏れていた。月2回、土曜の午後2時。先生のデモを見ながら自分で手を動かす、10人ほどの小さな教室。公式サイトに「ゆるくやりたいんです」と書いてあった一文で、ここに決めた。一人暮らし5年目にして、玉ねぎのみじん切りが毎回バラバラになる私には、ゆるさだけが頼りだった。


最初の回、隣に立った男の人のまな板の上を、ちらりと見た。


ひどかった。私よりひどかった。


「そのみじん切り、大丈夫ですか」と聞いたのは、正直、少し安心したからだと思う。「大丈夫じゃないです」と即答されたとき、口から笑いが漏れた。ふつう、「大丈夫です」って言う。せめて、言おうとする。この人は一瞬も取り繕わなかった。


「私も全然ダメで」

「え、そうなんですか」

「みじん切りだけで汗が出る」

「わかります、私は火加減がずっとわからない」

「見ればわかりそうなのに」

「だから毎回焦がすんです」


話しながら手を動かした。先生に二回注意された。それでも声が止まらなかった。換気扇の音と、鍋がぐつぐつ言う音と、10人分の小さな会話が重なって、部屋の中だけ別の温度があった。


食べる時間になって、10人が大きなテーブルを囲んだ。各自が作ったものを持ち寄る形式で、私たちのパスタは端に置かれた。麺が少し固く、ソースが油と分離して光っていた。どう見ても、完成度が低い。


「おいしくないですね」と私が言った。


「おいしくないですね」と彼が言った。


まったく同じタイミングで。


笑った。二人で、声を上げて。テーブルの端で、失敗作のパスタを前に。周りが少し振り返るくらいの音で笑ったのに、恥ずかしいとは思わなかった。胸の奥がじんわり熱くなる感覚、でも同時に「この人のこと、まだ何も知らない」という静かな冷たさも、同時にあった。好きかどうか、その時点ではわからなかった。ただ、また来週も会いたいと思った。


「また来ますか?」

「来ます。もう少し上手くならないと」

「私も」

「じゃあまた」


それだけで十分だった。


翌月、また隣になった。今度は鶏のソテーで、また二人してぐちゃぐちゃにした。皮がべたついて、中まで火が通っていなくて、先生に「あなたたち、毎回うるさいですよ」と苦笑いされた。うるさかったらしい。自覚がなかった。それが少し、うれしかった。


3回目の帰り、「少し飲みますか」と彼が言った。


中目黒のバー、NAKAMEGURO SMALL TALK。カウンターが8席しかない、薄暗くて天井が低い店。ハイボールを飲みながら2時間、仕事の話、育った場所の話、なんで料理教室に来たかの話をした。彼は「母親が料理上手で、自分で作ったことがなかった。東京に来てから困っている」と言った。私は「友達に『ちゃんと食べてる?』と心配されるのが嫌だった」と言った。


理由が少し、似ていた。誰かに頼ってきたもの、自分でやれるようになりたいもの。そういうものが似ている人と話すのは、どこかこわい。踏み込んだら戻れない気がして、でもその夜は2時間があっという間だった。


5回目の教室の帰り道。


目黒川沿いを二人で歩いた。2月の終わりで、桜にはまだ早く、枝だけが暗い空に影のように伸びていた。川面が街灯を反射してゆれていた。少し寒くて、コートの前を閉めながら歩いた。


「一緒にご飯食べに行きませんか」と言ったら「どこの料理屋さん?」と返ってきた。


「せっかくだから作りますよ、私の家で」

「料理教室まだ通い中なのに」

「挑戦してみます」

「失敗したら?」

「また一緒に作ります」


川の水音だけがしばらく続いた。彼は前を見たまま、少し黙った。私は自分が何を言ったのか、言いながらわかっていた。料理の話だけじゃない。失敗しても、また一緒に、という話。でも「違うかも」という気持ちも、正直あった。踏み込みすぎたかも、という冷や汗みたいな感覚。好きと、怖いが、同じ温度で胸にあった。


「じゃあ、お願いします」


低い声で、そう言われた。


次の土曜日の夕方、私の家でカルボナーラを作った。DEAN & DELUCAで買ったベーコンと、いい値段のパルミジャーノ。気合いだけは本物だった。卵が固まった。ソースがボソボソになった。教科書的には失敗で、それは自分でわかった。


「おいしい」と彼は言った。


嘘だと思った。でも、嘘でも、その言葉がほしかった。喉の奥が少し痛くなった。泣くほどではないけれど、泣く一歩手前みたいな感覚。食べた後、また二人で笑った。失敗作のカルボナーラを前に、あの最初の夜みたいに。


料理は今でも上手じゃない。


みじん切りはまだバラバラになるし、火加減は毎回ドキドキする。でも今は、作り終えた後に「どう?」と聞ける人がいる。


上手くなるより先に、作ってあげたい人ができた。たぶん、その順番で正解だった。


上達より先に、理由ができると、人は台所に立ち続けられる。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

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