野良猫のせいで、知らない人に話しかけた
11月の吉祥寺、路地裏でしゃがんでいた私に声をかけてきた人がいた。猫を挟んで話して、気づいたら毎週会っていた。縁って、こんなふうに転がり込んでくる。
11月の夕方というのは、5時を過ぎると急に暗くなる。
サンロードの喧騒から一本だけ外れた細い路地に、気づいたら迷い込んでいた。別に急ぐ予定もなかった。ただ、人混みに飽きていた。コートのポケットに手を突っ込んで、アスファルトを見ながら歩いていたら、足元にそれがいた。
オレンジがかったキジトラ。まん丸で、丸々していて、片耳がほんの少し欠けていた。
私はとっさにしゃがんだ。「かわいい」という言葉が、声に出る前に消えた。近づいても動じない。手を差し出したら、鼻でくんくん嗅いで、それからそっぽを向いた。完璧な無関心。なんかわかる、と思った。
「この子、よくここにいますよ」
声がして、心臓が跳ねた。振り返ったら、同じように猫を見ている人がいた。30代前半くらい。コーヒーカップを片手に持って、薄手のチェックシャツ。寒くないのかな、と思った。それが最初の印象だった。
「名前、あるんですか?」
「自分が勝手にサブって呼んでるだけで。えさはあげてないんですけど、なぜかよくいる」
「サブって渋い名前ですね」
「なんとなく。サブロウとかサブウェイとかじゃなくて、サブって感じだなって」
猫を挟んで、話した。サブは二人のやりとりを聞いているようで、聞いていないようで、ただそこにいた。前足をきれいに折りたたんで、どこか遠くを見ていた。
カフェの話になった。「このへんよく来るんですか」と聞いたら、月一くらいで、と言いながら指をさした。小さな看板が路地の奥に見えた。入ったことのない店だった。古いレコードのジャケットみたいなもの。昼間に前を通ったことはあったかもしれない。でも入ろうとは思ったことがなかった。
「マスターが古い音楽かけてて、コーヒーがうまい」
「へえ」
「今度行ってみてください」少し間があって。「じゃあ一緒に行きます?」
変な間のあとに出てくる誘いじゃなかった。それが自然な流れみたいに言われた。直球、という言葉が浮かんだ。
「え」と言ってから「いいんですか?」と言った。「もちろん」と言われた。
スマホを出して、連絡先を交換した。サブはまだそこにいた。何も気にしていないような顔で。
路地を出てから、動悸みたいなものがあった。恋、じゃないかもしれない。ただの、非日常に触れたときのざわめき。それでも足取りが少し軽くて、自分でも少し、笑えた。
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翌週の土曜日、そのカフェに行った。
店の名前は「WOODY」。吉祥寺の中でも、知っている人しか知らない、みたいな顔をした店。内装は古いレコードのジャケットが壁に貼ってあって、カウンターに4席、テーブルが2つだけ。マスターが60代くらいで、私たちが入ると「いらっしゃい」と言って、何も聞かずに音量を少し下げた。ブルーノートのジャズが、遠くで泳ぐような音量になった。
コーヒーが来た。一口飲んで、あ、うまい、と思った。
「本当においしい」と言ったら「でしょう」と嬉しそうに言われた。その「でしょう」の顔が、なんか、よかった。自慢じゃなくて、共有したかったんだという顔。
「サブ、今日もいましたよ、来る途中」
「帰りに会えるかも」
そういう会話が続いた。恋バナでも、身の上話でも、重い話でもない。ただ、テンポがよかった。沈黙も変じゃなかった。ジャズの音が埋めてくれるから。
WOODYを出たら、サブはいなかった。「今日はいないですね」と言ったら「まあ、気まぐれなので」と言われた。猫みたいですね、と言いかけてやめた。なんとなく。
翌週も、また会った。今度は彼が教えてくれたのが、中道通り沿いのパンとコーヒーの小さな店だった。名前は「はちどり舎」。窓際の席に座って、ライ麦のパンをちぎりながら話した。2時間があっという間だった。
気づいたら毎週になっていた。
吉祥寺のどこかで待ち合わせて、何かを食べて、歩いて、話した。井の頭公園を一周したこともあった。雨で途中で引き返したこともあった。特別なことは何もしていないのに、また会いたいと思っていた。それが嬉しいのか、こわいのか、よくわからなかった。
好きなのかもしれない。でもまだわからない。そういう状態を、ずっと抱えていた。確認したくなかったのかもしれない。確認したら、何かが変わる気がして。
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3ヶ月後。
路地裏を通りがかったとき、サブがいた。「いた」と指さしたら「毎週いる」と言われた。
「名付け親なんだから責任持って」
「責任持ってますよ、ちゃんと見守ってます」
「そのついでに私のことも」
言ってから、あ、と思った。冗談っぽく言ったつもりだったのに、少し間があいた。
「ついでじゃないです」
静かに言われた。路地裏の、夕方の空気の中で。サブは知らん顔で毛繕いをしていた。
胸の奥がぎゅっとなった。ぎゅっとして、それから、じわっとした。なんと言えばよかったのか、今でもよくわからない。そのとき私は「そっか」とだけ言って、なんとなく前を向いた。
それが告白だったのか確認したのは、1週間後だった。
「あの、ついでじゃないっていうのは」
「好きです」
「……そうか」
「そうか、って」
「嬉しかったから変な返し方してしまった」
笑われた。私も笑った。WOODY のジャズみたいに、少し遅れて音が届く感じがした。
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今もサブは路地裏にいるらしい。たまに一緒に会いに行く。会うたびに「えさあげないの」と言ってしまう。毎回「あげない」と言われる。それでも毎週いる、とサブは知っていて、私たちも知っている。
猫が運んでくる縁というのが、この世にある。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。