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恋愛体験談エッセイ

隣の席で好きだった3ヶ月の夜、後悔した嘘の話

六本木のオフィスの深夜、彼が画面を向けてきた。バグレポートの中の「aaaaaaaaaaa」。それだけのことで笑い合った瞬間から、始まっていた。言ったら壊れる。それだけが怖くて3ヶ月間、ひとりで抱えていた職場恋愛の話。

30歳・女性の体験
·橘みあ·6分で読める

正直に言う。3ヶ月隣の席で好きだったのに、一度も言えなかった。


エアコンの音だけが残って、画面の光だけが白く浮かんで、そういう時間が私はわりと好きだった。すくなくとも、あの夜までは。


「これ、見て」


彼が画面を向けてきた。バグレポートの中に、誰かが誤って入力した「aaaaaaaaaaa」という文字列。それだけ。ただそれだけのことで、彼はくくっと声を殺して笑って、私も笑って、それで終わりのはずだった。


でも、なぜか胸の奥が、ぎゅっとなった。


物理的に、本当に。みぞおちのあたりが何かに掴まれたみたいに、息がうまく吸えなかった。あの感覚を今でも思い出せる。モニターの光に照らされた彼の横顔。疲れているのに笑ってる人の顔って、なぜかとても無防備で、その無防備さがずるかった。


それが、八月の終わりだった。


---


翌朝から、職場の空気が変わった——正確には、私の中の


翌朝から、職場の空気が変わった。正確には、私の中の職場の空気が。


同じオフィス、同じ席、同じプロジェクト。何も変わっていないのに、彼が会議室に入ってくるたびに、背中がすこし緊張するようになった。Slackの通知音が彼からのメッセージかもしれないと思うだけで、スマホを確認する手が一瞬もたつく。


「田中さん、例のAPIの件なんですけど」


「あ、うん。ちょっと待って」


それだけの会話で、一日が変わった。変わってしまった、と言った方が正しい。


私は当時26歳で、職場恋愛のリスクについては頭でわかっていた。同じチームで何かあれば、スプリントのたびに顔を合わせる。スタンドアップミーティングで毎朝横に立つ。プロジェクトが終わるまで、逃げ場がない。


言ったら、壊れる。


その確信だけが、すごくはっきりしていた。


---


九月は雨が多かった。


渋谷のタリーズで、ランチを一緒に食べた日がある。チームで行ったのに、なぜか最後は二人になって、彼がアイスコーヒーをストローでくるくるかき混ぜながら言った。


「田中さんって、仕事中と仕事外で全然違いますよね」


「え、そう?」


「なんか、オフのほうが、」


そこで言いかけてやめた。なんか、って言ったまま、窓の外を見た。雨が窓ガラスをつたっていた。


私はその「なんか、」以降の言葉を、三週間くらい考え続けた。考えながらコードを書いて、考えながら電車に乗って、夜中に目が覚めてまた考えた。馬鹿みたいだとわかっていた。言いかけただけの言葉に、何かを見つけようとしていた。


そういうとき人は、信号を都合よく読む。


---


十月になると、プロジェクトが佳境に入って、毎日終電近くまで残るようになった。


デスクが向かいなので、顔を上げると彼がいる。彼も顔を上げたとき、私と目が合う。そのたびに、何でもない顔をする練習を、私は毎日していた。


あるとき、後輩の女の子が言った。「田中さんって、田中さんのこと好きそうじゃないですか」。田中、というのが私の名前で、彼の苗字も偶然同じ田中だった。その混乱した文章の意味を解読したとき、胸の中が熱くなるのと同時に、「そんなことないよ」という言葉が口から先に出ていた。


否定した。反射的に。


後輩の子は「そうですかね〜」と言いながらもう別の話をしていたけど、私はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。ASKA の「はじまりはいつも雨」がイヤホンから流れていて、なぜかそのタイミングに泣きそうになった。泣かなかったけど。


言ったら壊れる、という恐怖は変わらなかった。でも、それと同じくらい、もうひとつの恐怖が育っていた。


言わないまま終わることへの恐怖。


---


3ヶ月後、リリースの打ち上げが終わった夜


三ヶ月というのは、長いようで、体に刻み込まれるには十分な時間だった。


彼のコーヒーの飲み方。難しい課題が出たときに眉間に寄るしわ。笑うとき、少し顎を引く癖。Slackの返信が必ず文末に句読点をつける丁寧さ。そういうどうでもいいことが、気づかないうちに全部インプットされていた。


好きになるって、そういうことだと思う。


選んでいないのに、気づいたら全部覚えている。


---


十一月の最終週、プロジェクトのリリースが終わった金曜日の夜。


チームでの打ち上げが十時に終わって、外に出たら新橋の空気が冷たくて、みんなが解散し始めた。コートのボタンを留めながら「お疲れさまでした」を繰り返して、私も帰ろうとしたとき、後ろから声がした。


「田中さん」


振り向いたら、彼がいた。マフラーを首に巻きながら、すこし迷うような間があって。


「もう一軒、どうですか」


短い。それだけだった。


私は一秒、固まった。


コートのポケットの中で、手のひらに汗がにじんだ。十一月の夜なのに。外は四度しかなかったのに。


「……いいですよ」


そう答えた自分の声が、すこし低かった。普段より半音くらい、低かった。


彼が「じゃあ、」と言いかけて、すこし笑った。横顔が、あの夜と同じ顔をしていた。六本木のオフィスで「aaaaaaaaaaa」を見せてきたときの、無防備な顔。


私たちは並んで歩き出した。行き先も決めないまま。


3ヶ月間ひとりで抱えていたものが、この夜どこへ向かうのか、まだわからなかった。ただ、横を歩く彼の息が白く見えて、それだけで、胸がいっぱいになった。


---


好きな人の隣では、冬の空気まで味方に見える。

よくある質問

好きになったきっかけは何だったのですか?
残業中、彼がバグレポートの中に誰かが誤入力した「aaaaaaaaaaa」という文字列を見せてきて、一緒に声を殺して笑ったそのとき、みぞおちのあたりが掴まれたような感覚が走ったのがきっかけです。
3ヶ月間、なぜ気持ちを言えなかったのですか?
「言ったら壊れる」という恐怖が先に来ていたからです。同じプロジェクトチームで隣の席という環境で、関係が壊れることへの怖さが3ヶ月間ひとりで抱え込む理由になっていました。
どんな職場・場所での話ですか?
六本木のオフィスでの話です。夜の11時になると人の声が消えて、エアコンの音だけが残る残業中の時間が、この恋の舞台になっています。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

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