3ヶ月間、隣の席で好きだった。それだけで十分だと嘘をついていた
同じプロジェクトチームの彼を好きになったのは、残業中のどうでもない一言がきっかけだった。言ったら壊れる。それだけが怖くて、3ヶ月間ひとりで抱えていた話。
六本木のオフィスは、夜の十一時になると人の声がぜんぶ消える。
エアコンの音だけが残って、画面の光だけが白く浮かんで、そういう時間が私はわりと好きだった。すくなくとも、あの夜までは。
「これ、見て」
彼が画面を向けてきた。バグレポートの中に、誰かが誤って入力した「aaaaaaaaaaa」という文字列。それだけ。ただそれだけのことで、彼はくくっと声を殺して笑って、私も笑って、それで終わりのはずだった。
でも、なぜか胸の奥が、ぎゅっとなった。
物理的に、本当に。みぞおちのあたりが何かに掴まれたみたいに、息がうまく吸えなかった。あの感覚を今でも思い出せる。モニターの光に照らされた彼の横顔。疲れているのに笑ってる人の顔って、なぜかとても無防備で、その無防備さがずるかった。
それが、八月の終わりだった。
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翌朝から、職場の空気が変わった。正確には、私の中の職場の空気が。
同じオフィス、同じ席、同じプロジェクト。何も変わっていないのに、彼が会議室に入ってくるたびに、背中がすこし緊張するようになった。Slackの通知音が彼からのメッセージかもしれないと思うだけで、スマホを確認する手が一瞬もたつく。
「田中さん、例のAPIの件なんですけど」
「あ、うん。ちょっと待って」
それだけの会話で、一日が変わった。変わってしまった、と言った方が正しい。
私は当時26歳で、職場恋愛のリスクについては頭でわかっていた。同じチームで何かあれば、スプリントのたびに顔を合わせる。スタンドアップミーティングで毎朝横に立つ。プロジェクトが終わるまで、逃げ場がない。
言ったら、壊れる。
その確信だけが、すごくはっきりしていた。
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九月は雨が多かった。
渋谷のタリーズで、ランチを一緒に食べた日がある。チームで行ったのに、なぜか最後は二人になって、彼がアイスコーヒーをストローでくるくるかき混ぜながら言った。
「田中さんって、仕事中と仕事外で全然違いますよね」
「え、そう?」
「なんか、オフのほうが、」
そこで言いかけてやめた。なんか、って言ったまま、窓の外を見た。雨が窓ガラスをつたっていた。
私はその「なんか、」以降の言葉を、三週間くらい考え続けた。考えながらコードを書いて、考えながら電車に乗って、夜中に目が覚めてまた考えた。馬鹿みたいだとわかっていた。言いかけただけの言葉に、何かを見つけようとしていた。
そういうとき人は、信号を都合よく読む。
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十月になると、プロジェクトが佳境に入って、毎日終電近くまで残るようになった。
デスクが向かいなので、顔を上げると彼がいる。彼も顔を上げたとき、私と目が合う。そのたびに、何でもない顔をする練習を、私は毎日していた。
あるとき、後輩の女の子が言った。「田中さんって、田中さんのこと好きそうじゃないですか」。田中、というのが私の名前で、彼の苗字も偶然同じ田中だった。その混乱した文章の意味を解読したとき、胸の中が熱くなるのと同時に、「そんなことないよ」という言葉が口から先に出ていた。
否定した。反射的に。
後輩の子は「そうですかね〜」と言いながらもう別の話をしていたけど、私はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。ASKA の「はじまりはいつも雨」がイヤホンから流れていて、なぜかそのタイミングに泣きそうになった。泣かなかったけど。
言ったら壊れる、という恐怖は変わらなかった。でも、それと同じくらい、もうひとつの恐怖が育っていた。
言わないまま終わることへの恐怖。
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三ヶ月というのは、長いようで、体に刻み込まれるには十分な時間だった。
彼のコーヒーの飲み方。難しい課題が出たときに眉間に寄るしわ。笑うとき、少し顎を引く癖。Slackの返信が必ず文末に句読点をつける丁寧さ。そういうどうでもいいことが、気づかないうちに全部インプットされていた。
好きになるって、そういうことだと思う。
選んでいないのに、気づいたら全部覚えている。
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十一月の最終週、プロジェクトのリリースが終わった金曜日の夜。
チームでの打ち上げが十時に終わって、外に出たら新橋の空気が冷たくて、みんなが解散し始めた。コートのボタンを留めながら「お疲れさまでした」を繰り返して、私も帰ろうとしたとき、後ろから声がした。
「田中さん」
振り向いたら、彼がいた。マフラーを首に巻きながら、すこし迷うような間があって。
「もう一軒、どうですか」
短い。それだけだった。
私は一秒、固まった。
コートのポケットの中で、手のひらに汗がにじんだ。十一月の夜なのに。外は四度しかなかったのに。
「……いいですよ」
そう答えた自分の声が、すこし低かった。普段より半音くらい、低かった。
彼が「じゃあ、」と言いかけて、すこし笑った。横顔が、あの夜と同じ顔をしていた。六本木のオフィスで「aaaaaaaaaaa」を見せてきたときの、無防備な顔。
私たちは並んで歩き出した。行き先も決めないまま。
3ヶ月間ひとりで抱えていたものが、この夜どこへ向かうのか、まだわからなかった。ただ、横を歩く彼の息が白く見えて、それだけで、胸がいっぱいになった。
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好きな人の隣では、冬の空気まで味方に見える。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。