彼の家でカレーを焦がして泣いた夜が、一番の思い出になった
鍋の底が真っ黒。キッチンに煙。目から涙。でもあの夜の彼の顔を、私は一生忘れない。
付き合って2ヶ月。初めて彼の家に行った。
Bumbleで出会ったコウタは、目黒の1LDKに一人暮らし。「料理好き」とプロフに書いてあったくせに、冷蔵庫の中身は卵と納豆とビールだけだった。1回目のデートでそう言ったら「週末だけ本気出すタイプ」と笑っていた。
彼の家に行く日。私は朝から気合を入れていた。スーパーで材料を買い込んだ。玉ねぎ3個、にんじん2本、じゃがいも4個、豚肉300g、市販のカレールー。S&Bのゴールデンカレー、中辛。
「初めて彼の家で料理を作る」。この響きに、自分で自分を追い込んでいた。雑誌やインスタで見た、彼の家で手料理を作る彼女。エプロンして、鼻歌歌って、「できたよー」って呼ぶやつ。あれをやりたかった。
一つ問題がある。
私は料理がド下手だ。
一人暮らし4年目。自炊歴は浅い。キッチンに立つのは週に1回あるかないか。得意料理は「レンジでチンする冷凍うどん」。それを得意料理と呼んでいいのかは議論の余地がある。
でもカレーなら。カレーならいけるだろう。箱の裏に作り方が書いてある。失敗しようがない。そう思っていた。
15時。目黒の彼の部屋。インターフォンを押した。
「いらっしゃい」
コウタがドアを開けた。グレーのスウェットに白T。無印良品のルームシューズ。家着のくせに、なんか良い匂いがする。柔軟剤か、それともこの人の匂いなのか、区別がつかない。
部屋は思ったより片付いていた。本棚にはデザインの専門書。壁にはIKEAのポスター。窓際に観葉植物。ちゃんと生きてる。水やってるんだ。
「キッチン、使っていい?」
「もちろん。俺は何すればいい?」
「邪魔しないでいてくれればいい」
コウタが笑って、ソファでNetflixを流し始めた。テレビからMrs. GREEN APPLEの曲が流れていた。何かのライブ映像。
エプロンを持ってきた。自分の家から。花柄の。ちょっとダサい。でも他に持ってなかった。
玉ねぎを切り始めた。目が染みる。涙が出る。でもこれは玉ねぎのせいであって、泣いてるわけじゃない。まだ。
にんじんを切った。乱切り。ちょっと大きさがバラバラ。まあいいか。じゃがいもの皮を剥いた。ピーラーで。親指の皮も少し剥いた。血が出た。
「大丈夫?」
コウタがキッチンに来た。
「大丈夫大丈夫。出ないで。サプライズなんだから」
「血出てるけど」
「これは演出」
「どういう演出」
絆創膏を貼ってもらった。コウタの指が私の親指に触れた。大きくて温かい手。絆創膏を巻く指が丁寧で、息を止めた。近い。顔が近い。睫毛が長い。
「はい、もう行って。あと30分で完成するから」
追い出した。
肉を炒めた。野菜を入れた。水を入れた。ここまでは順調。箱の裏の手順通り。よし。いける。
問題は、火加減だった。
彼の家のコンロは火力が強かった。うちのと全然違う。強火のつもりで中火にしたはずが、思った以上にボコボコ沸騰している。
ルーを入れた。かき混ぜた。いい匂いがしてきた。よし。
ここで致命的なミスを犯した。
スマホが鳴った。友達のサキからLINE。「彼の家なう? どう?」。返信した。「今カレー作ってる。順調」。サキから「えらい!写真送って」。カレーの写真を撮った。いい感じじゃん。映えてるじゃん。フィルターかけて送った。サキから「美味しそう!」。
LINEに夢中になっていた。何分間だろう。5分か、10分か。
焦げ臭い。
振り返った。鍋から煙が上がっていた。
「やばっ——」
慌てて蓋を開けた。鍋底が真っ黒だった。カレーの下半分が完全に焦げている。焦げの匂いが部屋中に広がっていく。煙が目に染みる。
「うそ。うそうそうそ」
混ぜた。でもダメだった。混ぜれば混ぜるほど、焦げが全体に行き渡っていく。カレーが焦げ茶色から黒に変わっていく。
コウタがキッチンに飛んできた。
「どした? ……あ」
彼は鍋の中を見た。真っ黒なカレー。
「これは……」
涙が出た。
玉ねぎのせいじゃない。今度は本物の涙。悔しくて、恥ずかしくて、情けなくて、全部が一気に来た。
「ごめん。ごめんなさい。私、料理ほんとにダメで。いいとこ見せようと思ったのに。最悪。ほんと最悪」
涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていた。花柄のエプロンの裾で顔を拭いた。みっともない。彼の家で、初めての手料理で、カレーを焦がして泣いている。こんなの最悪だ。
コウタが何も言わずに鍋を持った。焦げた部分を避けて、上の方のまだ無事なカレーをお玉ですくって、別の鍋に移し始めた。黙々と。手際よく。
「水、足す。ルーも追加する。まだいける」
「いけるわけないよ、あんなに焦げて——」
「いける。任せて」
彼がコンロの前に立った。水を足して、ルーを割り入れて、弱火でゆっくりかき混ぜた。真剣な横顔。デザイナーの目で、鍋の中身を観察している。
私はキッチンの隅で立ち尽くしていた。まだ泣いている。エプロンの裾がびしょびしょだ。
20分後。
「できた」
テーブルに2つの皿。ごはんとカレー。見た目は……まあ、普通のカレー。焦げの痕跡はほとんどない。
一口食べた。
ちょっとだけ苦い。焦げのニュアンスが隠しきれていない。でも食べられる。ちゃんとカレーの味がする。
「……おいしい」
「うん。おいしいよ」
コウタが2口目を食べて、「これ、スモーキーでいいね。燻製カレーということにしよう」と言った。
笑った。泣きながら笑った。鼻水まだ出てるのに。
「次はシチューにしよう。シチューなら焦げても白いからバレにくい」
「その理論おかしくない?」
食べ終わって、皿を洗った。2人で並んで。コウタが洗って、私が拭いた。
キッチンの蛍光灯の下。彼の横顔が近い。腕が触れる。泡がついた手で、私のほっぺたをつんと触った。
「なに」
「泡」
「嘘。今ついたでしょ、わざと」
「バレた?」
笑った。彼の目が近い。水回りの湿気で、彼の前髪が少しだけ額にはりついている。石鹸の匂い。温かい湯気。蛍光灯がジジジと小さく鳴っている。
皿を拭き終わって、ソファに座った。Netflixであいみょんのライブ映像を流していた。「マリーゴールド」のイントロが聴こえた。
コウタの肩に頭をもたれかけた。彼のスウェットの生地が頬に触れる。柔らかい。温かい。柔軟剤と、少しだけカレーの匂いが混ざった、この夜だけの匂い。
「ねえ」
「ん?」
「また作りに来ていい? 次は焦がさないから」
「焦がしてもいいよ。一緒にリカバリーする」
その言葉で、また泣きそうになった。今度は嬉しくて。目の奥が熱くなって、唇を噛んだ。
あの夜から4ヶ月。私はまだ料理が下手だ。パスタは茹ですぎるし、味噌汁は塩辛い。でも毎週末、彼の家のキッチンに立っている。
一度だけ聞いた。「なんで焦げたカレーであんなに怒らなかったの」。
コウタは「怒るわけないじゃん。俺のために作ってくれたんでしょ。焦げたとかどうでもいい」と言った。
焦げたカレーの匂いは、多分一生忘れない。あれが、この人を本気で好きになった瞬間の匂いだから。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。