彼のエプロン姿に心臓が止まった。あれは反則だと今でも思う
Omiaiで出会ったケンジの家に初めて招かれた夜。紺色のエプロン姿の後ろ姿が、なぜかひどく色っぽく見えた。好きになる瞬間は、いつもこんなにさりげない場所に潜んでいる。
十一月の夜は、思ったより早く冷える。
代々木上原の駅を出てから、ケンジのマンションまで歩いて七分。並んで歩きながら、私はずっと自分の手のひらのことを考えていた。汗ばんでいないか。繋いできた手を、彼はどう思っているか。付き合って二ヶ月、でも彼の部屋に行くのは初めてで、それだけのことが、妙に胸の奥にひっかかっていた。
「料理するから」と彼が言ったのは三日前のLINEだった。既読がついてから返信まで、私は六分悩んだ。「楽しみ」と打って、消して、「ありがとう、楽しみにしてる」にして、またそれも消して、結局「やった」の一言だけ送った。
エレベーターの中で、ケンジが「何食べたいとかある?」と聞いてきた。「何でも」と答えたら「それが一番困る」と笑われた。その笑い方が少しだけ眉の端から滲むやつで、好きだな、とまた思った。
——好きだな、と思うたびに、私の中の別の声が「本当に?」と返してくる。
Omiaiのアプリで出会った。プロフィールに「自炊します」と書いてあったことは覚えている。でも正直、それがどの程度の自炊なのか、想像もしていなかった。コンビニ飯に毛が生えた程度かもしれないし、趣味レベルかもしれないし。私にとって「自炊します」はそれほど解像度の低い情報だった。
ドアを開けると、玄関にスニーカーが二足、きれいに揃えて置かれていた。
「座ってて」
ケンジはそう言って、コートも脱がないままキッチンに消えた。「飲み物とか出すから待って」じゃなくて「座ってて」。その短さが、なんだか家みたいだった。よその家なのに、自分の家みたいな気がした。
私はソファに座って、スマホを膝の上に置いて、それから結局スマホを見ることができなかった。
紺色のエプロン。
棚のフックからさっと取って、首に通して、背中で紐を結ぶ。一連の動作が迷いなくて、私はそれをただ眺めていた。背中越しに見るケンジの肩が、いつもより少し大きく見えた。気のせいかもしれない。でも確実に、なにかが違った。
冷蔵庫を開ける音。まな板の上で包丁が動く音。ステンレスのフライパンがコンロに置かれる音。キッチンから流れてくる音のひとつひとつが、部屋の空気をじわじわと塗り替えていく。BOSEのスピーカーからは小さな音量でVaundyが流れていて、それがまたよかった。選曲を考えてくれたのかな、とか、もともとこういう音楽が好きな人なのかな、とか、どうでもいいことを次々に考えた。
包丁を使う時の手首の角度が、無駄がなかった。
鍋をかき混ぜる肩の動き。ちょっと振り返って火加減を確認する横顔。エプロンの紐が、体の動きに合わせてゆれていた。
「何か飲む?ビールある」
「もらう」
ケンジが冷蔵庫から缶を二本取り出して、ソファまで持ってきてくれた。プルタブを開けて渡してくれる時、エプロンの前から、ほんの少し熱のにおいがした。料理の蒸気と、体温が混ざったような、汗のにおい。ほんの少し。でも確実にそこにあった。
心臓が、変な鳴り方をした。
——これ、ずるい。反則だと思った。
エプロン姿の男の人なんて、父親くらいしか見たことがなかった。でも父のエプロンはいつも花柄で、これはそういう話じゃなかった。ケンジのエプロン姿を色っぽいと感じた自分に、少し驚いていた。色っぽい、という言葉が正しいかどうかもわからない。でも他に言葉が見つからなかった。
「もう少しで完成する」
「ゆっくりでいいよ」
全然ゆっくりじゃなくていい、早く食べたい、と思っていた。でもそれより、あの後ろ姿をもう少し見ていたかった。二つの気持ちが同時にあって、どちらが本当かわからなかった。
私はケンジのことが好きだ、たぶん。でもたまに、「本当に?」という声が聞こえる。二ヶ月、まだ短い。好きという感覚と「違うかも」という感覚が、同じ温度で胸の中に並んでいることがある。それをどうすればいいのか、私にはまだわからない。
でもあの後ろ姿を見ていた時は、そういう声が静かだった。
パスタとサラダとスープ。テーブルに並んだ皿を見て、想像より全然ちゃんとしていた、と思った。グラスに赤ワインも注いでくれた。銘柄はわからなかったけど、ラベルが可愛かった。
「うまくできたかわからないけど」
「おいしい」
本当においしかった。でもそれ以上に、作ってもらえたことが、胸のどこかをぎゅっとさせた。外食より安いとか、そういう話じゃなくて。私のために台所に立った、ということ自体が、なぜかひどく沁みた。
「エプロン、似合ってた」
食べながらそう言ったら、ケンジが少し照れた。フォークを持ったまま、視線をテーブルに落として、少し間があった。
「そんなこと言う人、初めてだわ」
「本当のことだから」
「——ありがとう」
その「ありがとう」が、言い慣れていない感じだった。受け取り方がわからない人みたいな間があって、でもそれがなぜか好きだった。
帰り道、代々木上原の駅までまた七分歩いた。行きより少し寒くなっていて、ケンジが私の手を繋いでくれた。行きに気にしていた汗のことを、帰りは一度も考えなかった。
今でもたまに思い出す。
紺色のエプロン。包丁を使う手首。料理の熱と、体温のにおい。エプロンの紐がゆれていた、あの後ろ姿。
好きになる瞬間って、準備のできていない場所にある。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。