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恋愛体験談

「なんでもいいです」の四文字に、私はたぶん恋をした

3回目のデートの帰り道、社交辞令だと思って言った「肉じゃがが食べたい」。彼は本当に作ってくれた。土曜の昼過ぎ、玉ねぎの匂いとかすかな距離の近さの中で、私の何かが静かに溶けていった。

25歳・女性の体験
·橘みあ·6分で読める

10月の終わりだった。渋谷から代官山に向けて歩く帰り道、空気がやっと秋の匂いになってきた夜。3回目のデートを終えて、彼と並んで歩きながら、私はまだ少し緊張していた。


「何か食べたいものありますか?次は家で作りますよ」


彼がそう言ったとき、私の頭の中では「社交辞令だな」という判定が0.3秒で下りた。よくある流れ。次に会う約束をふんわり作る、あの感じ。だから私も、ふんわりと返した。


「じゃあ、肉じゃがが食べたいです」


本当に食べたかったわけじゃない。なんとなく口から出た。家庭的な響きのある言葉を選んだのは、少し試したかったのかもしれない。試して、どうせ流れると思っていた。


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1週間後、LINEが来た。


「来週の土曜どうですか?材料は買っておきます」


画面をスクロールして、二度読みした。


本気だった。


スマホを持ったまましばらく固まって、それからなぜかソファに深く沈み込んだ。胸のどこかが、じわっと熱くなる感覚。「嬉しい」という言葉より先に体が反応していた。


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土曜日、昼過ぎに彼の家に着いた。恵比寿の駅から歩いて8分、古いマンションの3階。ドアが開いた瞬間、醤油と砂糖が合わさった匂いが廊下まで漂ってきた。


台所を覗いたら、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ、牛肉が、ちゃんとまな板の横に並んでいた。


「揃えてくれたんですね」

「揃えないと作れないので」


当たり前のことを言う人だな、と思った。でも、その当たり前が、なぜか胸を突いた。


キッチンは二人が立つと少し狭くて、彼が玉ねぎを切り始めると、私は自然と隣に立った。彼の腕が動くたびに、Tシャツの袖がかすかに揺れる。午後2時の光が窓から斜めに入って、まな板の上に落ちていた。


「目、痛くないですか?」


玉ねぎの刺激で私はもう目がじんじんしていたのに、彼の目は平然としていた。


「慣れました」

「いつも作るんですか?」

「週3くらいは作ります」

「一人暮らし、長いですか?」

「7年です」


短い会話が続いた。カフェでするような、どこか取り繕った話じゃない。聞いたことに答えて、答えたことを受け取って、それだけの会話。なのに、なぜかカフェよりずっと素直に言葉が出てきた。


キッチンに立つと、人は少し無防備になる。向かい合うより、横に並ぶほうが、本当のことを話しやすい。そう気づいたのは、あの日が初めてだった。


鍋に材料が入って、だし醤油の香りが部屋に広がっていくあいだ、私たちは他愛もないことを話し続けた。仕事のこと、実家の話、好きなコンビニスイーツのこと。ローソンのバスチーについて5分くらい話した気がする。


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肉じゃがは、おいしかった。


ちゃんとした肉じゃがだった、という言い方しかできない。甘すぎず、しょっぱすぎず、じゃがいもが崩れていなくて、肉の旨みがちゃんと染み込んでいた。「料理できます」とアピールする人の味じゃなくて、ただ、食べられる料理の味。それが逆によかった。


「おいしいですよ、ちゃんとしてる」


そう言ったら、彼は「よかった」とだけ笑った。


その笑い方が好きだった、たぶん。派手じゃない。ただ安心したみたいな顔で、少し目が細くなる。私の言葉をちゃんと受け取った、という顔。


好き、と思った。


でも同時に、「これ、本当に好きなのかな」という疑問も浮かんでいた。雰囲気に飲まれているだけかもしれない。手料理を作ってもらったから、お腹が満たされたから、キッチンが狭かったから。条件が揃いすぎていて、自分の気持ちが本物かどうか、判断できなかった。


好きと「違うかも」が、同じ温度で胸の中に並んでいた。


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帰り際、玄関で靴を履いていたら彼が言った。


「また作りましょうか」


「次は私が何か持ってきます」と答えた。


「なんでもいいです」


彼はそう言って、少し笑った。


その四文字が、エレベーターを待つあいだも、駅まで歩くあいだも、ずっと頭の中で鳴っていた。「なんでもいい」。好き嫌いがないのか、私を信頼しているのか。どっちかわからない。どっちでもいいとも思う。


でも、「なんでもいい」と言われた瞬間、私の中の何かが静かに決まった感じがした。


試していたものが、試さなくてよくなった感じ、とでも言えばいいのか。


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あれから何ヶ月か経って、今も私はたまに思い出す。


あの土曜日の午後の光と、醤油の匂いと、「慣れました」と言ったときの彼の横顔。玉ねぎで目が痛かったこと。バスチーの話をしたこと。「よかった」と笑った顔。


あのとき私が「肉じゃが」と言ったのは、本当に食べたかったからじゃない。でも、食べ終わった後には、本当に食べたかった気持ちになっていた。


社交辞令だと思っていたのに、本気だった。

流されているだけかと思っていたのに、ちゃんと選んでいた。


人を好きになるのって、そういう順番で起きることがある。気持ちが先じゃなくて、行動が先で、体験が先で、後から気持ちがついてくる。


あの肉じゃがが、まだ食べたいと思う。


それは、彼のことがまだ好きだという意味だと、今ならわかる。


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「なんでもいい」と言ってくれる人のことを、人はたぶん、ずっと忘れられない。

この記事を書いた人

橘みあマッチングアプリ体験談ライター

27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。

このテーマを読む:初デート体験談

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