事故のあと、最初に電話したのは彼だった——その意味に気づいたのは翌朝
Tinderで出会って6ヶ月。自転車で転んで、血が出て、咄嗟にかけたのは彼の番号だった。ママでも親友でもなく。気づいたのは翌朝、絆創膏を見たときだった。
転んだのは、日曜日の夕方だった。
表参道から渋谷へ向かって自転車を漕いでいたら、道路の段差に前輪を取られた。気づいたら地面に手をついていた。ひざと手のひらに擦り傷、左のひじが血が出ていた。秋の日差しが低くて、アスファルトが橙色に染まっていた。10月の夕方5時、表参道の裏道。通行人が数人、一瞬こちらを見てから視線を戻した。
立ち上がって、自転車を端に寄せた。膝が笑っていた。革のサドルバッグが地面に落ちて、中のコーヒー豆の袋が半分こぼれていた。表参道のスタバで買ってきた豆。週に一度の小さな贅沢。
スマホを取り出した。
LINEを開いた。一番上にある名前に電話をかけた。
2コールで繋がった。
「どうした?」
「転んだ」と言った。声が少し震えた。なんで震えてるんだろう、と思いながら言った。痛いからか、情けないからか、それとも彼の声を聴いたからか、自分でもわからなかった。
「今どこ」
「表参道と渋谷の間。キャットストリートの入り口あたり」
「動ける?」
「動ける。血が出てる」
「わかった、行く」
それだけ言って電話が切れた。問いただすでも、大げさに心配するでもなく、「行く」の一言。奥歯を少し噛んだ。泣きそう、という感覚は、痛みからじゃなかった。
電話を切って、段差のそばに座ってハンカチで腕を押さえた。通行人が「大丈夫ですか」と声をかけてくれた。「大丈夫です、ありがとうございます」と答えた。スカートの膝が汚れていた。来週もここを通るのに、もう段差の位置は絶対覚えた、と思った。
15分後、彼が来た。
コンビニの袋を持っていた。救急セットを買ってきていた。絆創膏、消毒液、ガーゼ。キャップのポケットに滑り込ませたように、ローソンのレジ袋がくしゃっとしていた。走ってきたのか、少し息が切れていた。
「ちょっと見せて」と言って、腕の傷を確認して、「思ったよりひどくないな」と言った。
処置してもらいながら、私は何も言えなかった。しゃべる気力がなかったというか、なんか泣きそうで。消毒液がひじにしみた。「痛い」と顔をしかめると、彼が「ごめん」と言いながら続けた。謝る必要はないのに、と思った。
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気づいたら1駅乗り過ごしていて、彼の肩が温かかった
4回目のデートで飲みすぎた。帰りの中央線で気づいたら彼の肩に乗っかって眠っていた。起こしてくれなかった。1駅過ぎた荻窪で目が覚めた。
「痛い?」
「痛い」
「そうだよな」
それだけだった。同情も励ましもなく、「そうだよな」とだけ言った。大丈夫だよ、でも、もっと気をつけなよ、でもなく。ただ「そうだよな」。なぜかその一言が一番、胸に落ちた。
近くのカフェに入って、あたたかいものを飲んだ。私はコーンポタージュで、彼はブレンドコーヒーだった。窓際の席。日が暮れて、キャットストリートに街灯がともり始めた。彼はポテトも注文して、「食べて」と言った。さっきまで転倒の動揺があったのに、揚げたてのポテトを食べながら、なんとなく落ち着いてきた。
「自転車、大丈夫だった?」
「車輪は無事でした。ハンドルが少し曲がったかも」
「帰り、押して帰る?」
「押せると思う。ありがとう、来てくれて」
「まあ、近くにいたから」
彼の部屋は恵比寿で、表参道は確かに遠くない。でも「近くにいたから」という言い方が、なんか好きだった。大げさにしない。でもちゃんと来る。
1時間ほどして落ち着いて、帰った。
翌朝、起きてひじの絆創膏を見た。ドラッグストアの救急セットに入っている、ベージュのロール絆創膏。少し大きめに切って、ガーゼを当ててから貼ってある。丁寧な処置の跡だった。
そこで初めて気づいた。
電話をかけたとき、頭の中で選んでいない。お母さんでも、親友のかれんでもなく、咄嗟に彼に電話していた。LINEの一番上にある名前、という意味もあるけど、一番上にいるのは最近よく連絡を取っている人だ。つまり——。
ぼんやりそんなことを考えていたら、彼からLINEが来た。
「ひじ、大丈夫?」
返信を打ちながら、指先が少し震えた。なんで震えてるんだろう、また。今度は痛みじゃない。昨日と同じ、でも昨日とは別の理由だ、ということだけわかった。
「大丈夫。昨日ありがとう」
「どういたしまして。段差、気をつけて」
「気をつけます。コーヒー豆、半分こぼれたのが悔しかった」
「笑 それ大事なの」
「大事です、週イチの贅沢なので」
「じゃあ今週末、また買いに行きましょう。今度は一緒に」
6ヶ月付き合って、何回デートして、何回一緒に笑って、でも自分がどう思っているかは曖昧にしてきた。好きとか、大事とか、そういう言葉を口に出さなかった。なんか言ったら急に本物になってしまう気がして、怖かった。
でも、緊急のとき、体が先に答えを出していた。
転倒して血が出て、怖くて、最初に繋げたかった声が彼だった。それが、私の答えだった。
絆創膏は3日間貼っていた。剥がすのが、少し惜しかった。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。