頂上で「来てよかった」と言った夜。景色か私かで迷った横顔
初対面の相手に「一緒に山、行きませんか」と送った深夜2時の話。3月の高尾山、稲荷山コースの落ち葉の上で咄嗟に彼の腕を掴んだ。1秒だった。心臓が跳ねて、手のひらが熱くなった。あの感触がまだ残っている。
正直に言う。初対面に「山、行きませんか」と送ったのに、来てよかった。
深夜2時。2月の終わり、仕事終わりのベッドの中でスマホを握りしめていた。Pairsのプロフィールに「山登りが趣味」と書いてある人を見たとき、心臓がどくんと鳴った。なんとなく信用できる気がした。山が好きな人は、しんどいことを知っている人だと思っていた。たぶんそれだけで、送信ボタンを押した。指先が少し震えていた。
返信は思ったより早かった。「いいですね、どこに行きますか」。
その一文で、止めていた息を吐いた。断られると思っていたから。初めて会う相手にいきなり山を提案するのは、我ながらどうかしていたし、引かれる可能性も考えていた。でも彼は普通に「どこに行きますか」と聞いてきた。それだけで、この人とは話せる気がした。
高尾山を提案したら「行ったことないです」と返ってきた。
「初心者向けですか」
「全然大丈夫です、観光客も多いし」
「じゃあ行きましょう」
テンポが心地よかった。駆け引きがなかった。
高尾山口、朝7時
3月の第一土曜日、京王線の終点。改札を出たら、もう何組かいた。家族連れ、カップル、一人で来ている人。桜にはまだ早くて、でも空気がどこかもう冬じゃなかった。杉と土が混ざった匂い。吸い込むたびに肺の奥まで通っていくような、ひんやりした朝の空気。
彼は登山靴を履いてきていた。
「ちゃんと山仕様だ」と言ったら「登山ですから」と笑った。ゲイターまで付けていた。少し嬉しくて、喉の奥に詰まっていた緊張がほどけた。
1号路から上がった。舗装されているから歩きやすい。並んで歩きながら話した。向き合うより、歩きながら話すほうが、なぜかいろんなことを言える。目を合わせなくていいから。視線が同じ方向を向いているから。仕事のこと、家族のこと、山を好きになったきっかけ。彼は高校の時に友人に連れられて行ったのが最初だと言った。
「最初はしんどかったけど、頂上から見た景色で全部吹き飛んだ」
その言い方が、素直だった。
薬王院を過ぎたあたりで、彼が少しペースを落とした。
「しんどいですか?」
「いや、景色見てた」
木の間から、遠くに街が見えた。霞んでいたけど、ちゃんと広かった。
山頂の富士山と、稲荷山コースの落ち葉
頂上についた。富士山が見えた。
雲が少なくて、輪郭がはっきりしていた。思ったより大きくて、思ったより白かった。3月の冷えた風が頬に当たって、肌が引き締まるような感覚。「きれいだ」と言ったら、彼が「ほんとだ」と言った。並んで、しばらく同じものを見ていた。
下山は稲荷山コースを使った。土の道で、木の根が張り出していて、落ち葉が湿っている。足元を見ながら歩いていたとき、右足が滑った。咄嗟に彼の腕を掴んだ。1秒。手のひらが熱くなった。心臓が跳ねて、耳まで血が上るのがわかった。
「大丈夫?」
「……大丈夫です、すみません」
手を離した。でも指先に、彼のジャケットの生地の感触がずっと残っていた。
彼が前を歩いて、「ここも滑りやすいです」とたまに教えてくれた。声が少し柔らかくなっていた気がするのは、たぶん気のせいじゃない。
駅前の蕎麦とビール
下に降りて、高尾山口の駅前で蕎麦を食べた。山菜そば。出汁の匂いが湯気と一緒に立ち上って、最初のひとくちで、冷えた体の芯が溶けるみたいだった。彼がビールも頼んで、「山の後のビールは別格ですよ」と言った。私も頼んだ。飲んだ。冷たくて、苦くて、喉に染みた。確かに、別格だった。
帰りの京王線の中で、疲れて少し眠くなった。窓の外が流れていった。隣に彼がいて、膝に手を置いていた。自分の手。でも落ち着いた。
「また来ましょう」と彼が言った。
「どこに?」
「もっと高いところ。丹沢とか、谷川岳とか」
「行ったことないです」
「だから行くんですよ」
笑った。電車が揺れていた。あの日から、もう2年が経つ。今月、谷川岳に行く約束をしている。
一緒に登るのは楽だけど、一緒に下るほうが、ずっと近くなれる。
よくある質問
どのアプリで知り合って、最初のメッセージは何でしたか?↓
最初のデートはどこに行ったのですか?↓
頂上で「来てよかった」と言った彼の言葉は、景色のことだったのですか?↓
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。