頂上で「来てよかった」と言った彼の横顔が、景色のことか私のことか、今でもわからない
2月のPairsで「一緒に山、行きませんか」と送った。3月の高尾山、稲荷山コースの落ち葉の上で、彼の腕を咄嗟に掴んだ。1秒だった。手のひらが熱くなった。
最初のメッセージが、「一緒に山、行きませんか」だった。
普通じゃなかったと思う。でも後悔はしていない。Pairsのプロフィールに「山登りが趣味」と書いてある人を見たとき、なんとなく信用できる気がした。理由はうまく説明できないけど、山が好きな人は、しんどいことを知っている人だと思っていた。たぶんそれだけで、私は送った。2月の終わり、仕事終わりの深夜にスマホを握りながら。
返信は思ったより早かった。「いいですね、どこに行きますか」。
その一文で、少し息をした。断られるかもと思っていたから。初めて会う相手にいきなり山を提案するのは、我ながらどうかしていたし、引かれる可能性も考えていた。でも彼は普通に「どこに行きますか」と聞いてきた。それだけで、なんとなく、この人とは話せる気がした。
高尾山を提案したら「行ったことないです」と返ってきた。「初心者向けですか」「全然大丈夫です、観光客も多いし」「じゃあ行きましょう」。テンポが心地よかった。駆け引きがなかった。
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3月の第一土曜日、7時に高尾山口で待ち合わせた。
京王線の終点。改札を出たら、もう何組かいた。家族連れ、カップル、一人で来ている人。桜にはまだ早くて、でも空気がどこかもう冬じゃなかった。土の匂いと、かすかな杉の匂いと、朝の冷たさ。息を吸うたびに、肺の奥まで通っていく感じ。
彼は登山靴を履いてきていた。
「ちゃんと山仕様だ」と言ったら「登山ですから」と笑った。私も一応トレッキングシューズを用意していたけど、彼のほうがちゃんとしていた。ゲイターまで付けていた。少し嬉しくて、少し緊張がほどけた。
1号路から上がった。舗装されているから歩きやすい。並んで歩きながら、話した。
向き合うより、歩きながら話すほうが、なぜかいろんなことを言える。目を合わせなくていいから。視線が同じ方向を向いているから。仕事のこと、山を始めたきっかけ、一人で行くか誰かと行くか。「一人のときは気持ちを整理しに行く感じです」と言ったら、間髪入れずに「わかります」と返ってきた。
山を「整理する場所」として使っている人に、初めて会った。
私が一人で高尾山に来る理由も、それだった。何かが詰まったとき、仕事でも人間関係でも、とりあえず山に来る。登っているあいだに、頭の中が少し整列してくる。それを言語化したことはあまりなかったけど、「わかります」という一言で、私の中のどこかが静かになった。
息が上がると、自然と会話が途切れた。その沈黙が変じゃなかった。風の音、自分たちの靴音、どこかから鳥の声。埋めなくていい静けさというものが存在するんだと、そのとき思った。
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頂上の展望台に着いたのは2時間後だった。
霞んでいた。でも遠くの山並みが薄く見えた。空が広かった。さっきまで木の中にいたのが、急に開ける感じ。肺に風が入ってくる。立っているだけで、体の中のものが少し出ていく気がした。
並んで立って、景色を見ていた。
風が冷たくて、彼の髪が少し乱れた。私は何も言わなかった。言えなかったというより、言う必要がなかった。その横顔をちらっと見て、また遠くを見た。
「来てよかった」と彼が言った。
景色のことか。私のことか。
わからなかった。今でも、わからない。あのとき聞けばよかったとは思わない。聞かなかったから、ずっと両方でいられる。
「また来ましょう」と言ったら「絶対来ます」と返ってきた。「どこかもっと本格的な山、行きますか」「丹沢あたりはどうですか」「知識ないですけど、一緒なら行けそう」。その「一緒なら」という言葉が、耳の中に少し残った。聞こえなかったふりをしながら、ちゃんと聞いていた。
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帰りは稲荷山コースを降りた。
舗装されていない道。木の根が出ていて、落ち葉が積もっていて、少し急なところもある。その代わり、木の匂いが強くて、陽の差し方が柔らかかった。私はこっちのほうが好きだった。観光地じゃない、ちゃんとした山道の感触。
落ち葉の上を踏む音が、二人分した。
彼が滑りそうになった。木の根に足を取られて、体が傾いた瞬間、咄嗟に腕を掴んだ。「ありがとうございます」と言いながら、彼も少し掴んでいた。1秒くらいの話だった。でも手のひらが、じわっと熱くなった。
その熱を確かめるように、少し手を握ったままにしていた。彼も離さなかった。2秒か、3秒か。どちらからともなく手を離して、また歩いた。何も言わなかった。これは何なんだろうと思いながら、木漏れ日の中を歩いた。
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高尾山口から京王線に乗った。
疲れていた。でも話が止まらなかった。疲れているのに言葉が出てくる、というのが不思議だった。体は重いのに、なんか、軽い。矛盾しているけど、そうとしか言えない。
新宿で乗り換えて、改札の前で「じゃあここで」と別れた。人が多かった。ルミネの看板が光っていた。彼が改札をくぐって、私も歩きはじめて、振り返ったら彼も振り返っていた。
どちらも何も言わなかった。
それだけだったけど、電車の中でずっと手のひらを見ていた。
その夜のうちに、LINEで次の山の話を始めた。「丹沢、いつにしますか」「5月くらいどうですか」「いいですね」。スマホの画面を見ながら、これは上手くいくかもしれないと思っていた。
上手くいくかどうか、まだわからない。でも少なくとも、山が好きな人と山に行くことの意味を、あの日初めて知った。
気持ちを整理しに行くはずの場所で、また新しい気持ちが生まれることもある。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。