「また行きたい」と送った夜、Pairsで出会った25歳の私が変わった
恵比寿から山手線に揺られながら、削除ボタンの上に指を置いたまま3分間。「先に送ると軽く見られる」という声と、本当のことを言いたい気持ちが、同時に胸の中にあった夜の話。
恵比寿駅の改札を抜けた瞬間、手のひらがじっとりしていた。
11月の夜。恵比寿ガーデンプレイスからつながる坂道に、クリスマスに向けてイルミネーションが灯りはじめた頃だった。息が少し白くなる気温。でも寒さより、ずっと別のもので体が熱かった。
デートは3時間半。ガーデンプレイス内のカフェ「THE GARDEN ROOM」でチーズケーキを食べながらはじまって、坂を下った先のワインバーで終わった。タクヤは話すのが上手だった。沈黙が怖くて先回りして喋ってしまう私と違って、間を恐れない人だった。会話の合間に少しだけ空く静けさが、責めてこなかった。それが不思議で、ずっと何か焦っていた。焦りの正体が何なのかは、山手線に乗ってようやくわかった。
「また会いたい」という気持ちの、重さ。
カフェでチーズケーキを口に運んでいたとき、タクヤが突然、「チーズケーキって工場で作ってる感じがしてなんか夢がないよな」と言った。脈絡がなかった。でもなぜかすごく笑えた。胸のあたりから何かがほどけていく感じがして、気づいたら声を出して笑っていた。その後ワインバーに移っても「チーズケーキ工場論」は続いた。大量生産と職人技の話から、なぜか「好きな食べ物に哲学を持っている人は信用できる」という結論になって、また笑った。赤ワインのグラスを持ったまま笑って、ああ、楽しいな、と思った。思ったと同時に、もう帰りたくない、と思った。
23時すぎ。山手線の窓に映る自分の顔が疲れている。でも嫌な疲れじゃない。3時間半ずっと笑っていた顔をした人間が窓に映っている。恵比寿から渋谷、代々木、新宿と過ぎていく光の残像。車内はほどよく空いていて、私はドア際に立って、スマホを開いた。
Pairsのトーク画面。タクヤとのやりとり。最後のメッセージは6日前の、「日曜日、楽しみにしてます!」という私の一文。絵文字なし。送ってから「絵文字なしのほうが自然かな」「でも淡泊すぎる?」と10分悩んだ、あのメッセージ。
キーボードを開いた。
「楽しかった。また行きたいです。」
打って、止まった。
指が、削除ボタンの上にいた。
「重すぎない?」って、脳内の誰かが囁く。「なんか必死に見えない?」「向こうから来るの待ったほうが無難では?」——いつの間にか吸収してきた「恋愛の作法」みたいなものが、一気にやってきた。先に連絡しない方がいい。向こうが「また会いたい」と言うのを待つ方がいい。女性から先に動くと軽く見られる。そういう声が、どこからともなく来た。誰かに言われたわけでもない。でも確かに体に染みついている、正体不明のルール。
3分くらい、画面を見つめながら電車に揺られた。目黒を過ぎた。五反田を過ぎた。窓の外の光が少し疎らになっていく。
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そもそも、なんで待たないといけないんだっけ。
楽しかったのは本当のことだ。また行きたいのも本当のことだ。それを素直に言うのがなんでダメなの。向こうが送るのを待って、向こうが誘うのを待って、その間ずっとスマホを気にしながら過ごすほうが、よっぽど消耗する。気にしながら「気にしてない私」を演じるほうが、よっぽどしんどい。既読をつけて放置する時間も、メッセージを温めすぎて送れなくなることも、全部経験してきた。どれも、本当に望んでいたものと違った。
今夜3時間半、笑いながら話した人に、「楽しかった」と言いたかった。ただそれだけのことが、なぜかこんなに難しい顔をしている。
送った。
23時14分。大崎駅に停車しているタイミングで。
既読がついたのは7分後だった。
「俺もめちゃくちゃ楽しかった。また行こ、絶対」
喉の奥が詰まった。詰まったけど、そこから笑いがこみあげてきて、口元を手で押さえた。隣の座席のおじさんが怪訝な顔で見た。すみません、深夜にひとりでスマホ見て笑ってる人間が隣にいて、すみません。
「来週か再来週、どっちかで調整できますか」
今度は即返信だった。
「来週の土曜! 夜空いてる? 渋谷でごはん行こうよ」
空いてる。全然空いてる。むしろ予定を入れないようにしていた。なんなら来週一週間まるごと空いている気分だった。
「空いてます」
「やった。どこ行きたいとかある?」
「渋谷なら……ヒカリエの上のほうのレストランが気になってました」
「じゃあそこにしよう。調べておく」
電車を降りて、歩いて帰る10分間、スマホを何度も見た。画面が暗くなるたびにつけた。別にメッセージが来たわけでもないのに、ただトーク画面を見たかっただけ。駅からの道、いつもより空気が冷たくて、でも足元だけが妙にあたたかかった。
渋谷ヒカリエ、11階のレストランで食べた和牛のコースは、今でも一番おいしかったデートの記憶になっている。「チーズケーキ工場論」の続きもした。今度はパスタの大量生産の話になって、また笑った。タクヤは相変わらず間を恐れない人で、沈黙が来るたびに私は少しだけ、あの山手線の車内を思い出した。削除ボタンの上に指を置いたまま、大崎駅に近づいていく3分間のことを。
あの夜、送らなかった後悔を想像するほうが、ずっと重かった。
待つことの消耗より、動くことの恥ずかしさより、ずっと大事なものがある。「楽しかった」を「楽しかった」と言える、それだけのことが、ときどき自分を一番遠くに連れていく。
先に送ることより、送らないことを選んだ後悔のほうが、ずっと重い。
この記事を書いた人
27歳・東京。Pairs・with・Tinder・Omiai・タップルを延べ3年間使用。マッチングアプリで3人と出会い、2回失恋した経験をもとに執筆。失恋した夜に誰かのブログで楽になった経験から、このサイトを始めた。